傷つけてもいいひと









振り向くことなどできなかった。


振り向いたらそこでたまらない愛しさがこみ上げてきて、勇気をふりしぼって踏み出した1歩が無駄になってしまう。振り向くことなどできなかった。




「政宗さま」




いつものように自分のななめ後ろから、ひかえめな声で自分の名を呼ぶ声。小十郎が何を言おうとしているのか、判らないわけがなかった。しかし、奥羽の山々よりも高い己の自尊心がそれを認めることを許さなかった。



「どうかしたのか」




赤毛の馬を風に乗せるようにして走らせた。自慢の馬だ。この馬に追いつけるものなどそうはいない。小十郎が後ろを行くのは、単純に汗血に追いつけないという理由もある。そちらも見ずに、政宗は愛想のない口調で吐いた。



「あの男のことです」



胸が痛んだ。ちくり、ちくり。吐き出す息がいつもよりも熱い。自分がこのまま振り向けるような人間だったらこんなことにはならないのに。どうしようもなくて唇を噛んだ。風の音に混じれて、小十郎の嘆息が後ろから聞こえた。それを諌める気にもなれない。




「いいのですか、このまま行ってしまっても」
「・・・構わぬ。他ならぬわしが決めたことだ、文句あるまい」
「そうですか」



本当はここで小十郎に止めてほしかったのかもしれない。2つ返事であっさりと引かれて、物分りのよい家臣が恨めしかった。








いずれは天下を治めるのだ。1人の人間ごときにに心乱されてどうする。そう何度も自分に言い聞かせた。どうせ相手は自分のことなど、たくさんの中の1人くらいにしか思っていないのだ。そう言い聞かせた。













自分ばかりがこんなに苦しいなんて、なんて馬鹿らしいんだろう。なんて滑稽だろう。






もうずいぶんと走った。1度だけだと決めて振り返る。思わず目を見開いた。心臓がどくりと大きく跳ねている。呼吸さえももどかしい。



「ま、ごいち・・・」



ずいぶんと走ったはずなのに、まだその姿は見える位置にあった。一瞬のはずなのに、それはスロー映像のようにゆっくりと政宗の目に焼きつく。名を呼んだ。うまく言えていないのは呼吸が整っていないからだ。胸がしめつけられている。


本当は判っていた。相手も自分のことを憎からず思っていることを。うれしかった。こんなにうれしいことはないと思っていた。こんなに身勝手な自分を愛してくれることがたまらなくうれしかった。


だからこんなかたちで孫市を傷つけてしまう自分のことなど、いっそ嫌ってくれと思った。どうせ自分は、自分のことでせいいっぱいだから。でも孫市はそんなことはしない。それは一緒に過ごした、ほんとうに短い時間だったが、それを通して身を持って感じていた。









徐々に小さくなる人影。その表情が悲しそうに見えるのは自分の独りよがりな感傷にすぎない。どうかその切ない思いがいつまでも彼に残ればいいと思った。



勢いのついた赤毛の馬は、今さら止まることもなくその速さのまま先をめざした。