雨の日はフマジメなキスを




礼法室の畳の青い香りが、接近している台風の影響で湿気て重さを含んでいた。普段授業で使うことのないその部屋は空気がこもっていて、むせるほど濃く香る。その香りはなぜか懐かしさを呼び覚ます。
上履きを脱いで、は畳の上でひっそりとくつろいだ。



「何堂々と授業さぼってるんですか?」
「ひっ」

息を飲んで振り返ると、そこにはなぜか菊の姿があった。いまは授業中であり、本来ならば彼も授業を受けているはずだ。とはいえ、彼の詰問する姿勢は崩されることなく、彼女もまたそれに飲み込まれておずおずと口を開く。











台風で電車が動かないため、電車通学の生徒は休校となった。そのため、授業は進まずに自習となり、は部室に隠してある教科書やノートを取りに来たのだという。


「・・・で、誰が電車通学かなんて教師は把握していないだろうし、そのままさぼってしまおうと」
「はい。その通りです」
「まあいいんじゃないですか」


菊もそんなの姿を見かけて後を追ってきたのだという。本当は、向かいの美術室で美術の授業中だったが、担当教諭が画材を探すため準備室に移動した際に離席してきた、そう淡々と告げるのが彼らしいが、やっていることは不釣合いなぐらい大胆だ。

「いやいや、そっちのがやばくない?」
「どうとでもなりますよ。ただ、見つかるのはやはり本意ではないので匿ってもらえますか?」
「うん、上履き脱いで上がって。襖閉めちゃっていいから」


入退室の作法の練習用に、教室の入り口とは別に襖を設けていたため、それを閉めてしまえば廊下から部屋の様子を気取られる心配はない。菊は脱いだ靴を綺麗にそろえて、音もなく襖を閉めた。
それを視界の端でとらえて、は畳の上に手足を大きく投げ出す。


「ふあーあ」

ひとしきり伸びきったところで、今度は手足をばたつかせたり、左右にごろごろと転がったりしている。畳を海に見立てて泳いでいるかのようだが、優美さは伴わずに、さながら幼児の水浴びだ。幼児に返るのは甘えたい心理の表れなのかもしれない。
菊が声をかけるまでいつまでもそうしてる気配を感じ取り、彼は話しかける。


「先輩、スカートの中身見えてしまいますよ」
「すいません。でも本田くん、3次元興味ないでしょ」



普段からかわれている仕返しのようにが笑いながら言う。そして動き疲れたのと、話しかけられたのに満足して、眠るように瞼を閉じた。
閉じた瞼の上に影が重なり、いぶかしんで再び開けると、冷めた目で菊が彼女を見下ろしていた。


菊は眉の間に憂いをひそませ、ふう、とため息をついて、学年の象徴であるネクタイに手をかけると、するりと音を立ててあっという間にほどけて、興味なさそうに畳の上に落とされた。続いて襟元に伸びた手が首のあたりで空気を入れるように何回か往復した後、片手でぞんざいにボタンが外される。

の視線は、呆気なく放り出されて寂しそうにしているネクタイにしばらく釘付けになる。影がより濃くなったかと思うと、菊が体を彼女の方へ倒していた。
は腕の力だけで這うように後ずさるが、それを追いつめるように菊もゆったりと進む。湿気を多く含んでまとわりつくような今日の空気のように、逃れる術はないのだろうとどこかで分かっていながら腕を動かす。やがて、押入れの柔らかな戸を背にし、それ以上さがることができないのを知る。
目のふちがじわじわと熱い。湧いてくるしずくがこぼれないように、何度も目を瞬かせた。



「先輩だったら話は別ですよ」


2人しかいない喧騒から遠い部屋のなかで、触れてもないのに互いの体温が伝わるぐらいの距離で、菊は彼女にだけ聞こえるように低く囁いた。



「すいません」
「ほら、ちょっと本気出すと逃げるじゃないですか。めんどくさい」
「すいません」

「・・・かわいいので、許します」


少し拗ねたように菊は言って、それから「できれば目を閉じていただけますか」と続けた。が何か答えるよりも早く、いつものように答えは必要ないと言わんばかりに、素早く彼女の目を手のひらで覆った。