許さないでくれ




今夜は風が強くてやけに蒸した。見上げた空に星が一つもないから、きっと雨が降るのかもしれない。いつまでもつだろうか。まとわりつく湿気を風が流していくから、気持ち悪くはなかった。水路に沿った大通りだったので、遮るものがない分風の勢いが一際強かった。それに夜も更けていたので、通りを行き交う人の姿は見られなかった。


「今にも降ってきそうですな」
「そうですね」


わたしが仰ぎ見ると、隣の張遼が口を開いた。体の片側から張遼が支えている体勢だったので、上を見るには彼に体重を預けるようになるから気づいたようだ。沈黙が苦しくなる前に何かしら口を開く彼は、武将にしてはよく気の利く男だった。


「ご気分はいかがですか」
「相変わらずです・・・、気分が悪い。もしわたしが戻してしまったら、その辺に放ってくださっても構いませんので」
「いえ、きちんとお届けしますよ」

深みが感じられる笑い方をして彼は言った。一軍を任せられるだけあって、彼の言動には頼りがいがある。同じような立場にある自分も彼を見習わなければならないと思った。




普段は強いはずの酒が、その日はやけに体にしみた。ふらついて立つこともままならないことに、一番驚いたのは自分だ。立ちくらむ感覚に抗うこともできず、倒れそうになる体を咄嗟に支えてくれたのは張遼だった。同じく武に携わる者だから、そのたくましい胸がずるいと思った。彼の申し出を断ることは、その時のわたしにはできなかった。ぐらぐら揺れる視界とおぼつかない思考のなかでも、周りが野次る声だけはなんとなく拾えていた。

張遼の女性の扱いに長けている部分が苦手だった。女性であるよりも武人として国のために忠義を尽くすことを選択した自分に悔いはないが、彼の目に映る己の姿を想像するとぞっとする。たくさんの綺麗でしとやかな女性を知っている彼からすれば、わたしなど粗野な猩々といったところだろう。
彼といると、自分が女性らしくないことに劣等感を抱いていることが浮き彫りになるので、知らず知らず彼を避けるようになっていた。




今回のようなことがなければ、これからも彼と話す機会はなかっただろう。改めて話してみた張遼は、同じ武将で女性のわたしに対してもきちんと令を尽くして接してくれた。劣等感から彼の像を不自然に歪めてしまっていたのかもしれない。そんな自分を少し恥じた。


「風が強いのはいいですね。馬に乗っている時のようです」
「はは、どのは根っからの武人なのですね」
「お恥ずかしい話です。この歳にもなって色気の一つもないと、遠くの母に笑われてしまいそうです」


彼への苦手意識を払拭すると、自然に自分から口を開くことができた。常にわたしの思考の中心は武であって、そんな面白みのないわたしの話でも張遼ならば適当につないでくれるだろうと思っていた。どうせ屋敷につくまでなのだ、気をつかうこともないだろうと思いつくままに話しかけた。






「そのようなことはありませんよ」


気がつくと背には水路へ落ちるのを防ぐための柵の感触があった。目と鼻の先ほどの距離に張遼の顔が迫っていて、両手のひらで横へと押し返す。


「な、なにを・・・!」


動転してしまい言葉が続かない。押されるがまま横へ反らされる彼の頭部には、押し戻すような力は込められていなかった。仮にそうであれば、わたしがどんなに抵抗したところで力に押し切られてしまう。


「何をするのか、と言われたら、あなたがあまりにも可愛らしかったため、どうにかしてしまおうと思いました」
「な、な」

首を回せないから視線だけこちらによこしてきた。気を引くような目つきで、わたしの未知の領域だったから今すぐここから逃げたくなった。頬を押し返される姿は滑稽なはずなのに、男ぶりが良ければ関係ないのだということがまたずるいと思った。彼が喋るたびに唇の柔らかな感触や、吐息の熱さを感じて落ち着かない。



「普段強いはずの酒に、どうして今日は酔っておらるのですか」
「それは、分からないです」
「庇護欲をかき立てられて仕方がない。危なっかしいのです、あなたは」

言葉の意味を測りかねて何も言わないでいると、わたしの手を彼の手がそっと下ろした。改めて正面から見つめられるとどこを見ていいか分からなくて、彼から視線を外して対面の塀を眺めていた。


「己の価値を見誤っている。禁欲的な姿が逆に人をひきつけるということを知らない。清純であることは褒めてしかるべきです」


すらすらと言われても、それが自分と結びつくまでに時間がかかった。今まで自分の価値など考えたこともなかったのだから。



「自由の利かないところに付け入るのは卑怯と言われても仕方ありませんが、手段を選んでいられない程にあなたが欲しい」

張遼の腕がわたしの背後の柵へとのびる。わたしは彼の腕の檻に閉じ込められる形になった。



「それと、申し訳ないですがやめろと言われてもやめませんので」



いつの間にか降り始めた雨に視界が煙る。濡れるのも構わず互いにそこから動けない。支えるものが欲しくて、張遼にしがみつく。それに気を良くしたのか、唇を離した時に見えた彼の顔がおいしいものを食べた時のように満たされている印象を受けた。





「さて、こうも着物が雨に濡れてしまってはどこかで休む必要があるかと存じますが、言ってる意味、お分かりですよね?」


あえて言葉で聞いてくれたのは、わたしの裁量次第ということなのだろう。