もう夜は死んだ いつもよりも早く出社し、事務所の窓を開けた。ぬるいけれども風が入ればそれだけで心地よい。人気のない事務所を見渡して誰もいないことを確認してから鼻歌まじりで同じ部署の人のデスクを拭いていく。 窓の外に人影を見つけて歌うのをやめる。入り口をくぐったと同時に大きな声で挨拶をする。 「おはようございます」 「はよ」 そのままプロイセン先輩は自分のデスクへと荷物を置いて、パソコンの電源をつけ、トレイから資料を引っ張り出す。無駄のない動作はいつものことだが、今日のそれはさらに磨きがかかっている。まるで、先ほどまで作業をしていたかのような手際の良さだった。 まっすぐなスーツときちんとアイロンのかけられたワイシャツを身に着けているにもかかわらず、なぜだか今朝の彼からはくたびれた印象を受ける。不思議に思って彼の席の受話器を拭くふりをして近づいてみる。 「あれ、先輩。なんか髪湿ってますよ。今朝シャワー浴びてきたんですか?」 やけに近くから湿った爽やかな香りがしたのでちらりと見てみると、朝日をなめらかに反射する先輩の色の薄い髪の毛に気がついた。いい香りだなあ、なんてのんびり考えていたけれど、よく考えてみたらそれって聞いてはいけないような大人の事情なのじゃないかということに気がついて、心臓が大きく脈打った。 「・・・お前、なんか変なこと考えてねぇか?」 「へ」 わたしも年頃の娘なので、下世話なことを考えて顔を赤らめたりした。しかしその後に、尊敬する先輩に親密な女性がいるかもしれないと考えつくと、体の中の血液が逆流するような感覚だった。全身に力が入らなくて、膝からくずれ落ちそうになる。 「言っとくけど、普通に家に帰ったからな」 「はあ」 「・・・お前のそれは分かってねぇ反応なんだよ。だから、さっきまで仕事しててシャワー浴びに家戻ったんだっつの」 「ああ、そういうことですか!」 ぱちん、と胸の前で両手を合わせる。ほっとして先輩を見ると同じように彼もこちらを見ていた。ちょっと不機嫌そうに眉間にしわを寄せている。 「んだよ。あからさまに嬉しそうにしてんじゃねぇよ」 「え、わたしにやけてますか」 「『いつも厳しい指導するクソ先輩が残業でくたびれててザマァ!』みてぇなツラしてるぜ」 「違いますよ。そうじゃなくて・・・」 「じゃあなんだよ?」 顎をしゃくって先輩はわたしに問いかける。口元には余裕の感じられる笑み。気持ちを見透かされているような気さえする。 「あの、えっと・・・」 言おうとがんばってみるけれど、蚊の泣くような声しか出ない。そんなわたしの口元に椅子に座ったままの先輩がぐっと伸びて耳を近づける。そんな優しさにまた胸がどくどくと早鐘を打つ。 「あ、アイロンは誰がかけているんですか・・・?」 なんとかそれだけ言うと、先輩はよくする唇を尖らせたポーズで拗ねたようにする。 「俺だよ、お・れ! だから彼女いねぇんだって。お前まであいつらみてぇに馬鹿にすんのかよ?」 「やー違いますよー」 先輩は独り身であることをよく年次の近い他部署の先輩たちにからかわれていたので、わたしの発言も同じように片付けてくれたみたいだ。助かったなーと思いながら、わたしも釣られて笑う。笑ってごまかす。 「先輩、じゃあシャワー浴びるためだけに帰ったんですか? ぶっ続けてやった方が効率よくないですか?」 「おい、。お前就業規則もっぺん見直せ。そんな勤務の仕方、うちじゃ認めてねぇぞ」 「それは、そうですけど・・・」 「俺がそれやっちまうと他部署に示しがつかねぇだろ」 さらっと言って、先輩は立ち上がったパソコンをカチカチと操作して作業中のファイルを開く。さっと目を通して進捗度の確認をし、モニタの電源を切った。先輩の扱うものは機密性が高いので下っ端のわたしが近くにいると作業ができないのだ。 「おまえ、なんて顔してんだよ・・・」 こっちを見た先輩が顔をしかめる。自分がどんな顔をしているかはわからないけれど、口角ががくっと下がっている気はする。 「せめて、半日年を取得するとか」 「数日徹夜したって死にゃしねぇよ。だから気にすんな、な」 聞き分けの悪い子を宥めるように、彼の手のひらがわたしの頭をなでる。彼の目のふちが、眠気をやり過ごすために何度もこすられたのか赤くなっている。何かできることがあればいいのに。 「先輩、わたしコーヒー買ってきますよ!」 「なんだよ。いいっつっても行くだろ、お前」 「へへ!」 「へへじゃねぇよ! ・・・あーじゃあ頼むわ」 「了解です。ボスですか、ネスカフェですか」 「なんでもいい」 「それじゃわかんないで、自販機んとこ着いたら携帯に連絡しますねー」 「めんどくせぇやつだな」 雑巾を自分のデスクに置いて、かわりに財布と携帯電話を取り出してわたしは廊下に出た。相変わらず人の数は少なかった。 |