絶体絶命のダブルブッキング




大きな声を上げるのは、驚いているのよりも認めたくない気持ちの方が大きいのだろう。スペインの過剰な反応に付き合うのは面倒なのでロマーノは嫌ったが、居合わせている以上仕方ないといった具合に適当に相槌を打っていた。但し、彼は手元の雑誌から1ミリたりとも意識を逸らしてはいない。


「俺、絶っ対に会議なんて行かへん! お前子分なんやし、代わりに出席してくれや、ロマーノ」
「無理だろ」

にべもなく断ると、スペインはますます大きな声で騒ぎ立てた。この場合無視しても同じ結果になっていただろう。認めたくないだけであって、スペインの中で既に答えは出ているはずだろうから、ロマーノはそれとなくスペインに提案をしてみることにした。


「とりあえずに電話してみたらいいんじゃねー」
「嫌や! 物分りのええのことやもん、二つ返事で『はい、わかりました。会議がんばってくださいね』って言うに決まっとる!」
「まあ、そんなとこだろうな」
「なんやねん、ロマーノ! 親分必死なんやで、冗談言うんは後にしてくれや!」


ロマーノは幼い頃からよくスペインに怒られていたが、その時の怒り方とは違うような気がした。幼い頃によく見たのは父や兄のような顔だったが、今のスペインは大人の男の顔だった。大切な約束をしていたようだから、スペインの気持ちも分からなくはない。冷静さを欠いた兄貴分をたまにはフォローしてやるのも悪くはないと、気まぐれに口を開く。


「大切な約束だからこそ、だめになったって事前にきちんと連絡してやるのがマナーだろうが。埋め合わせは絶対するんだぞ、コノヤロー」


先ほどまで頭の先から湯気を出さんばかりの勢いだったスペインが、急に静かになった。背中から反省の色をしたオーラを濃く発散していた。気落ちした様子で礼を言われたが、ロマーノは雑誌をめくるページの音で聞こえないふりをした。やがて携帯電話を取り出したスペインが受話器に向かって話し始める。
離れていたので受話器の向こうのの声はロマーノのところまで聞こえなかったが、事情を説明するスペインの声だけが独り言のように部屋に響いていた。先ほどまでの取り乱した様子をひた隠しにして、申し訳なさそうな声だったり無理矢理明るい声で話していた。表情が見えなければいくらでも取り繕うことができる。それは多分も同じなのだろう。互いに物分りの良い大人のふりをしている。
通話が終わった時、スペインの深いため息がやけに響いた。


、わかったって言ってたわ」
「んー」
「ほんまに申し訳ないなあ・・・」

ロマーノが雑誌から目を離すと、ちょうどスペインの横顔がそこにあった。声とは裏腹に、瞳に力がこめられていた。前にも何度か見たことがある。スペインは譲れないものに対してものすごく情熱を燃やすが、今の彼はまさにその燃えている時だった。











インターホンを押すと、へんてこな笑顔でが迎えてくれた。

「びっくりしたよ」


それはロマーノも同じだった。今日が例の会議の日だった。ロマーノとの間で特別会う約束は交わしていない。ロマーノは、ふらりと彼女の家に立ち寄ってインターホンを押した。もしいなければそこで何事もなかったかのように立ち去るつもりだったが、は海外ドラマのDVDを見るために家にこもっていたらしい。ロマーノにしてみれば用事らしい用事もなかったが、なりゆきでの家に上げてもらうことにした。

手土産の1つでも持ってくればよかった、とロマーノが言うと、がちょうどアップルパイを焼いたところだから、と言って紅茶と一緒にそれらをテーブルに並べた。1ホールまるごと出てきたアップルパイは、彼女ひとりで食べるにしては大きすぎる。恐らく何もなければ今日スペインとふたりで食べるつもりだったのだろう。そう思ってロマーノはアップルパイと彼女を交互に見た。

「りんごがね、傷んじゃうから。焼くと少しは日持ちするかなあって」

ロマーノの心中を見抜いたかのように、彼女は苦く笑った。切り分けられたアップルパイがロマーノの前に差し出される。さくっと焼けたパイの香りと、熱を受けたりんごがシナモンの独特の香りと混ざって甘い香りを放っていた。


「何にせよ焼きたてがいちばんうまいに決まってる。今日の俺はめちゃくちゃツイてる、間違いねえ」
「うん。いちばんおいしい時に食べてもらえて、アップルパイもきっと喜んでるよ」
もだろ?」
「え。・・・ああ、そうだね。ロマーノがいてくれてよかった。ほんと」


そう言って目尻に溜まった雫をを指先ですくう仕草をするのを、ロマーノはアップルパイに夢中になって気づかないふりをした。思えば数日前からこんなことばかりな気がする。実際の作ったアップルパイはよくできていて、彼女が落ち着くまでの間にロマーノは2切れほどぺろりと平らげてしまった。

はスペインに会うのを本当に楽しみにしていたのだろう。リビングまでの道のりの途中に見えたワードローブのある部屋に置かれたポールハンガーには、洒落たワンピースが飾られていた。見る度に彼女の胸に喜びを運んだワンピースは、数日前から悲しみのとげに変わった。片付けるために触ることすらためらわれたのだろう。
本当は会いたいのにスペインの仕事を尊重して文句一つ言わずにこうして1日を過ごそうとしている。スペインも同じだ。文句はたくさんたれたが、やることをきちんとやって1日を過ごそうとしている。




「ちなみに何のDVD借りてきたんだ?」

が落ち着いた頃を見計らってロマーノは切り出す。が借りてきたものは、有名なシリーズもののドラマだった。まだ見始めたばかりだという。そのドラマならロマーノも見たことがあった。


「それは今日1日使ってでも全部見た方がいい」
「ええー、途中で眠くなっちゃうよー」
「ばっか! ぶっ続けて見ることによって作品の魅力が光るんだっつーの!」
「そうなの? ねえ、犯人はだれ?」
「それ言ったら意味ねーだろ。気になるんだったらちゃんと見ろ、バカヤロー!」

納得いかない様子では唇を尖らす。


「とりあえず、俺を信じろ!」


ドラマの構成とは別に、ロマーノには確信があった。詳しく言わないのは後の彼女の楽しみのためだ。力強く言うと、をしぶしぶ頷かせることに成功した。ひょっとしたら今日の自分はこのことを伝えるためにここに来たのかもしれない、と思った。言うべきことを言ったのでもう帰ろうと思った。そのことをに伝えると玄関まで見送りをしてくれた。



「あんまり長居しちまうとスペインの野郎がうるせーからな」

顔をしかめながら言って、ロマーノはしまったと思った。名前を出すのはまずかったかもしれないと、ちらりとを見ると、もうすっかり元気になったのか声を上げて笑っていた。が元気になってよかった。そう思いながらいつもの軽口を飛ばす。


「ひまだったらいつでも連絡よこせよ。間男でも本命でも大歓迎」
「うん、ありがと」


もちろん冗談だった。こんなに互いのためを思って行動しているスペインとの間に入るまねは、何があっても絶対にしない。
ふと思いついたようにロマーノはの額に手のひらをぺったりとくっつけた。


「何してるの?」
「いいか、。今日の俺はめちゃくちゃツイてるから、そのツキを特別に分けてやる。アップルパイの礼に受け取っとけ」
「うむ、ありがたく頂いときますか」

ロマーノの手のひらから謎の波動を受け取って、は今日いちばんの笑顔を見せた。それはまだ取っとけ、そう心の中で言いながらロマーノは玄関の戸を閉めた。














その夜、ロマーノの元にいくつか連絡があった。街でナンパした女性数名、スペインの部下、それから。うち、ナンパした女性については省略する。

スペインの部下は、どうしてロマーノの元に連絡してきたのかがまず謎だった。
ロマーノがそれを確認すると、どうやら執務室からスペインの姿が消えたので、手当たり次第関係者に連絡を取っているところらしい。今日の会議であったことを取り入れたプロジェクトの対応で慌てているらしいが、その部下に向かってロマーノは「スペインの執務机を見てみろ」と伝えた。乱雑に書類が積まれている様子が予想できるが、スペイン本人にはどこに何があるかが分かる様に整頓されている状態なのだ。電話越しに紙の束をかき分ける音がするが、そのうち部下がはっと息を飲む音が聞こえた。ついでにパソコンの中のデータも確認しておくように伝える。
驚きと興奮で声を震わせながらスペインの部下が言うには、今日の分どころか、数日分前倒しで必要なデータや文書が作成されていたという。なんとなくロマーノはそんな気がしていた。

「とりあえず今日のところは、そっとしていてやれよ」

了承の声は、夜の色になめらかに溶けた。








時計の針が真上を向いて重なる頃に、からメールで連絡があった。
『犯人は○○!』と少し興奮気味に書いてあって、さすがあいつはスペインと釣り合うぐらいの馬鹿だなと、ロマーノはひとりでくっと笑った。
それから目下行方不明中であるスペインの身元が判明した。今はの家で疲れ果てて眠っているという。
なんとなく、数日前のスペインの瞳の中の情熱を見た時から、こんな風になる予感がしていた。あのふたりには、そんな幸せな姿がよく似合う。だからそんな貴重な時間を削ってまで礼なんていらないのに、そう思いながらも馬鹿に付き合ってやるかと一言返信しておく。


『俺のおかげだろ?』



すかさずから返信があり、どんだけ律儀なやつなんだ、とつぶやいてから部屋の灯りを落とした。
窓から見える月が、切り取る前のアップルパイのような形をしていた。いい夜だった。