8.聖書が落ちていたから





「入りたまえ」

呼びかける声は、厚い扉を通してこもったものになった。すこしばかりの逡巡の間をおいて、わたしはノックをしてからその部屋へと足を踏み入れた。
静かな夜だった。部屋の明かりがゆらゆらとゆれる様が時間の感覚を忘れさせる。部屋のなかでは何も音を立てるものがないので、わたしの足音ばかりが響いた。それでも目的の人物を前にして立ち止まると、言葉が出てこなかった。そうしている間にも遠くで夜鳥がまるく響くような声で一鳴きした。

「どうか、ご無礼をお許しください」

部屋の主は夜着に召し変えて、まるでわたしを待っていたかのようにゆったりと構えていた。

「はじめからとがめるつもりはないよ。何が目的だい? それと、ここまでどうやって辿り着いたのかも気になるね。並みの警備ではなかったはずだが?」
「あなたとゆっくりお話がしたかった。ここまでの道のりについては、後で詳しくご説明致します。警備たちは、不幸にも日ごろの疲れからか強い眠気におそわれたのでしょう」
「そうか。残念だがその警備たちはクビだね。明日にでも全員断頭台に乗せられてもおかしくはない」
「・・・もちろん、その覚悟があってのことです」
「他人の命を犠牲にしても自分の話を聞けと言うのかい? はは、怖ろしいお嬢さんだ」
「あなたがそのように仰る予感はしておりました。ですが、もし叶うのならば、どうか彼らを・・・」
「きみはその後に私が否定することも予想してはいなかったかな?」

穏やかな瞳を見つめて、わたしは何の反応も示すことができなかった。すると目の前の男性がふっと笑う。

「もちろん、警備の件は不問に処す。そもそも、彼らが職務を放棄して侵入者の存在を許した姿を目撃したものがいないのだから、証明のしようがない」
「どうもありがとうございます」
「さて、なんのことやら。それでは本題に入ろうか」


フリードリヒ2世と呼ばれる男が適当な席を指して、わたしにかけるように命じた。



「きみが幸運の小鳥さんかい? 直接話をするのははじめてだったね」
と申します。わたしも陛下のことはギルベルトからよくお話をうかがっておりますので、なんだかはじめてのような気がしません」
「どうかそのままくつろいで話してくれ。あれの友人ならば、私とも友人であろう」
「恐縮です」


ギルベルトは時代の上司のそばで仕えてきたが、現上司である彼のことを心から慕っていた。昼にギルベルトの姿が見えないときは、大抵お茶だのなんだので彼に付きっ切りだという。ギルベルトはわたしに会うと必ず自分と彼の自慢話をするけれど、最近はもっぱら彼の話ばかりだった。


「話というのは他でもない、現在の大戦の話です」
「うーん、きみは命知らずなのだね。私の機嫌を損ねるつもりか」
「兵の数で大きく負けているとはいえ、向こうは連合軍。大軍とはいえ烏合の衆です。我こそはと功を急いて、指揮が行き届くはずもありません。対するこちらは精鋭ぞろいであります。その強さはまぎれもなく本物」
「理想は各個撃破と言いたいのであろう。それくらい誰でも知っている。それをわざわざ伝えにきたのではあるまいな?」

数に劣る軍の戦い方は、古来より奇襲か各個撃破が定石である。奇襲では戦術的に勝利はつかめるかもしれないが、大局は揺るがない。一国ずつの撃破が理想であると、聡明な王をはじめ、誰もが同じような絵図を思い描くだろう。だが、そこに思考が辿り着いても、絶望的な兵力差であるからこそ誰しもこの戦いに希望を持てずにいる。
語気を強めた王は迫力があった。背中にいやな汗が浮いて呼吸が苦しかったが、ここで引き下がるわけにはいかなかった。わたしは自分という商品を売り込むためにここに来ているのだ。

「そこで、わたしの力を役立ててほしいのです」
「きみの? 見たところただの小娘でしかないきみに、なにができると言うのだ? 幸運でも運んでくれるのかね、小鳥さん?」
「そうではありません。わたしが運ぶのは幸運なんかではないのです。わたしは・・・・・・」

ここまできて、言うのを少しためらってしまった。今さら何をためらう必要があるのか謎だが、大きく息を吸い込み再び王と向き合う。


「わたしが呼び込むのは不幸です。それも、敵方に対しての。具体的には敵の運を下げます。わたしが持っているのは、他人を不幸にする力です」

対峙する王の目が大きく見開かれた。途方もないことを口にしているという自覚はある。信じさせるための証拠となると、ここまで辿り着いた不思議な力という実績しかない。
言うべきことは、言った。まばたきもできずに、わたしは王の出方を待つ。


「あっはっは! 口元を歪めて悪魔のように笑う練習でもした方がいいかな?」
「大物ですよね、本当に・・・」
「いや、少なくともそれを聞いて私は此度の戦を戦い抜く覚悟ができたよ」

先ほどまでふたりの間に立ち込めていた重い緊張のもやが一瞬にして晴れた。再び王はくつろいだ様子になって、わたしの方を見た。

「あなたの才でもってわたしをご自由にお使いください。きっとお役に立ってみせます」

信じてくれた。その恩に報いるためにも精いっぱいの働きをしようと思った。使える主に対して、自然と頭を下げた。
戦況を読む力、古今の戦術への深い造詣、それらに優れる我らが王。恐らくこの時代有数の指揮官である。それだけではない、治世においてもきちんと能力を発揮できるはずだ。わたし達はいい王をいただけた。ギルベルトでなくても思わず心が震える。



「この件に関しては、これからじっくり話をしていこう。その前に1ついいかな?」
「なんでしょうか」
「野暮なことを聞くが、きみは一体何なのだね?」


それこそ途方もないことだった。海を隔てた遠い故郷、遠い昔の神話を伝える。眠る前の子どものように、王は静かに耳を傾けてくれた。



「さながらきみは、私に知恵の実を授けてくれた、といったところかな」
「はあ・・・」
「きみはギルベルトと一緒に育ったはずだろう。その割には信仰心がうすいのだね」

神、か。考えてみると苦い笑いがこみ上げてきた。その存在の捉え方は、恐らく他人とは大きく異なっているのだろう。少なくとも、自分のなかでは絶対にして唯一のものであるとは認識していない。
それを王が穏やかに眺めていた。


「きみはこの国の者ではないのに、どうして戦うのだい?」
「目が覚めてから、""のいる場所はギルベルトが守っていたものだったんですよ」
「ふっ、きみは自分の感情さえ理解するのを拒むのだね」


それ以上話すのを拒むかのように王がソファから立ち上がった。


「夜も更けたし、今日はここまでとしておこうか。詳しい話はまた後日に」
「拝承いたしました。夜分遅くにどうも失礼しました」



帰り道も来た時と同じような事をして、部屋まで戻った。