ハートのため息





いつだって人生を楽しく彩るのはサプライズだろう? 呼び鈴をけたたましく鳴らすと、ガラス戸をがらがらと音を立てて開けて、苦い顔をした菊の姿があった。
彼の言うところの正装――いわゆるジャージだ――を身にまとって菊は、心ここにあらずといった様子で手早く俺の前にコップと牛乳パックを差し出した。


「なんのお構いもできませんが」


決まって彼が言うせりふだった。いつもならば、熱くもなくぬるくもない、お茶の味と香りがいちばん引き立つ温度で淹れられた緑茶と、素朴な甘みの菓子で迎えてくれる。
しかし、今日の彼は、こともあろうにそのまま襖の奥へと消えていこうとしている。言葉通り、俺に何一つ構わずといった様子で。


「ヘイ、キク! ちょっと待ってくれよ」
「……なんなんですか、アルフレッドさん」

不機嫌を隠そうともせず菊がこちらを睨みつけてくる。地がやわらかい顔立ちだから、瞳にこめられた力だけが妙に浮いていて、迫力を感じた。

「折角の休日なんだぞ。もっと構ってくれよ」
「生憎、立て込んでおりまして。実にすみません」

すぱっと滑らかに襖が閉まって、菊の姿もその向こうへと消える。
仕方なしにアルフレッドは目の前の牛乳パックからコップで1杯分を注いで、勢いよく飲み干した。それから、カルシウムが必要なのは菊の方だとのんびり思った。
飲み終わったコップを流しに置き、牛乳パックを冷蔵庫へ閉まった。それから、菊のいる部屋の襖を開けた。


イヤホンを装着して、菊は2つ画面のついたゲーム機を縦にして片手で持ち、別の手ではペンのようなものを持って画面にタッチしていた。薄暗い部屋でゲーム機に向かい嬉しそうな表情を浮かべている菊の姿に、アルフレッドは言葉を失う。
やがて、開いた襖の間から差し込む光に気づいた菊が顔を上げる。アルフレッドの姿をとらえて、眉間にしわを寄せた。

「ご覧の通り、取り込み中なんです。少し気を使って頂けますか?」
「……ええとキク。それは、一体何なんだい?」
「これですか?」

一度手元のゲーム機に視線を落とし、再びアルフレッドをとらえて菊は頬を少し染めるようにして微笑んだ。


「アルフレッドさん。私、彼女ができたんです」


それからアルフレッドに口の挟む隙を与えずに、一気にゲームの説明を始めた。ゲームの中も現実と同じような時間が流れているため、休日の今日はデートで忙しいこと。プレイヤーの好みに合わせて、バーチャル彼女の容姿や性格が変化していくこと。そうして同じ時間を共有していくうちに、いつしか菊にとってかわいくて仕方がない存在になったということ。


「デート中とか、キスして欲しそうに潤んだ瞳でこちらをのぞいてくるんですよ!」
「へ、へえ……」
「キスは6秒です! 色々試しましたが6秒でまず間違いありません!」

菊の家で流行っているネット上のスラングで言うところの「ずっと俺のターン!」状態で、興奮気味に拳を堅く握る菊に、アルフレッドは相槌を打つことくらいしかできなかったが、少しだけ興味の持てそうな話題に変わった。

「6秒?」
「ええ」
「ふうん」

アルフレッドはにこりと笑って菊の手からゲーム機を取り上げて、手帳を畳む要領でぱたりと閉じた。
無言で見つめ合い、菊がアルフレッドの瞳の奥に意図を見出して、抵抗をやめて大人しくなる。重なる唇が、いつまでも離れていこうとはしない。

「俺の場合は、俺の気の済むまで離してあげないけどね」

さらりとした黒髪を畳の上に散らして、ぼうっとした様子の菊に、笑ってアルフレッドが言って聞かせる。
まだ意識が定かではないのか、それとも何を言っても無駄だと知っているからなのか、あえて菊は何も言わずに、息の調子が戻るまで横になっていた。ようやく落ち着いてから、アルフレッドの脇の閉じられたゲーム機へと手を伸ばす。


「じゃあ、気が済んだのならもういいですよね?」
「うーん」

元の姿勢でゲーム機を構える菊に、アルフレッドが寄り添う。


「俺もいっしょに見ててもいいかい?」
「そうしたければ、どうぞご自由に。私は嫌ですけれど」
「サンキュー、キク」



はあ、と観念して菊が深く息をもらした。