16.もし世界が再出発するなら 大きな船が出発の合図のように、白い煙を吐いて、ぼおっとうなっていた。 「おい、ホンダ」 見送りに来た菊の姿を見つけたギルベルトは彼を呼び止める。 「あいつ知らねぇか?」 そう言いながら彼は左右に首を振り、人の波の中にちかちかと光を返す金色の頭を探していた。菊は、気の毒そうに、それでも意を決した様子で口を開く。 「彼女は今日、ここへは来ません」 珍しく理解する間を置いて、ギルベルトがいぶかしむように赤い瞳で菊を覗いた。 「あいつが決めたことなのか」 菊はその赤い瞳から逃れるように伏し目になって、無言でうなずいた。 「そうか」 ギルベルトの横顔からは何もうかがえなかった。ただ、遠くを見るようにしていた。 「ギルベルトさん。少しだけ、私の話にお付き合いいただけますか?」 「あ……。ああ」 まだ鈍い反応のギルベルトに、菊は目を細めて苦笑ともつかない微笑を返す。 「古い神話です」 そして静かに菊は語りだした。 8つの頭を持つとても巨大な蛇の神が、人間の神に退治されるという話の筋は、神話の定型の1つだった。 「その蛇は、かがちの瞳をしていたと言われます」 「かがち?」 「輝く血のように赤いことです」 ギルベルトは出会った頃のの様子を思い出した。ギルベルトの瞳に興味を示す人間は多いが、昔のことで、もうはっきりとは思い出せないが、から向けられたのは同士に向けるような視線だった気がする。 「そして伝説のあったとされる地域では、8つの川の支流を倒された大蛇に見立てという説もあります」 「川?」 「最初から悪さをする神様ではなかったんです。わたしの家では、色々なものに神様が宿るとされてまして、川には川の神様がいます」 恵みを与える川の元に人は栄える。その川も、時には氾濫し、作物やひいては人に被害を与える。人の力ではどうしようもないこと、それをなすものに畏敬の念を抱き、神と呼んでいた。 「その地域では、当時製鉄が盛んだったといいます。その際に出る廃棄物を川に流して処理をしていた。すると川は汚染されていった。件の大蛇の腹が赤くただれていたとされるのは、そのことを指すともいわれます」 穢れた神は、いつしか悪い化け物に転じ、人間の神に退治されてしまった。 「その土地に強く根付いた信仰。その蛇の名前を冠した、ヤマタノオロチ伝説です」 「8つの又?」 「ええ、"ヤ"は8のこと。"オロチ"は大蛇のことです。では"マタ"は? 私もギルベルトさんと同じように思ったことがあります。又の数が8なら、頭の数は9であるはずだと」 そして菊はいくつかの例を挙げた。 三叉路は、三方に道が延びる交差点で、又の数は2つ。 トライデントは、三又の矛と呼ばれているが、同じく先端が3つに分かれていて、又の数は2つ。 「分かれた先の数を"マタ"と呼んでいる、と考えるべきなのでしょう。ですが……」 日本には、9つの頭を持った竜の名のつく川があるということ。日本の竜は、西洋の4本の足と翼を持ったドラゴンとは異なり、立派なたてがみを生やし、蛇のように長い胴体をしていていること。 「その土地に住む人の間で語り継がれたものです。だから、9つ頭の竜はいたのではないでしょうか。そして、それが8つの頭の蛇になったのではないかと、私は思うんです」 「じゃあその9つ目はどうなったんだ?」 「ギルベルトさん。なぜ私がこのタイミングで話しているか、勘のいいあなたなら既にお気づきのことと思いますが?」 「けっ、勿体ぶりやがって」 ギルベルトは悪態をついて地面を蹴った。風を受けた柳のように涼しい顔で、菊がそれを眺める。 は小さな頃からギルベルトと一緒だった。人には許されない長い時間を共にしてきた。人ではないことは、彼にも分かっていた。 「本当は、彼女は何も言わずにあなたの前から去ろうとしていました」 「だろうな」 「あなたと彼女の問題に口を挟んでしまって、すみません」 先ほどまでの人を食ったような態度は菊の本質ではあるとは思うが、ギルベルトとの今後に大きく関わる出来事を知っているだけに、漂う別れの気配を少しでも薄めようとする彼なりの気遣いだったとも思えた。落ち着いた声は、真摯な彼の気持ちを伝えるのに適していた。深く下げられた頭を眺めて、ギルベルトは緊張をほぐしたようにふっと笑った。 「お前がよかれとしてくれたことに、俺が腹を立てる道理はねぇよ」 「ギルベルトさん……」 「だから、謝んなって」 歯を見せて笑うギルベルトが、潮風のせいなのか少ししおれたように見えた。 「あの、彼女がここに残るのは、ここが彼女にとっての帰る場所とかそういうことではなくて」 「ホンダ。いいって。後であいつから聞くから」 ふたりのつながりが絶たれたわけではないことに、菊の胸に熱いものが迫り上がってきた。 「ええ、ぜひ」 「じゃ、お前も頑張れよ。お前なかなか見込みあるぜ」 いつも通り高いところからのギルベルトの言葉に、菊もいつも通り受け流すように笑った。 |