17.傍観者の一言





何年もの間、土の上に葉が降り積もっていくことを繰り返したのだろう。ぬかるみやすい足元に注意しながら、菊とふたりで森の奥を目指した。滝も、支流も、そこには十分あった。
冷たい水につかることを菊はよしとしなかったが、穢れを洗い清めるために昔から行われていることだからと言って、わたしは譲らなかった。

人の手が加えられずにいたその森は、森林の特有の鬱蒼とした雰囲気はなく、重ねた葉を通してやわらかい光が届くような、やさしさに包まれるような空間だった。





「なんで今まで離れられなかったんだろう。……意地、だったのかな?」

先を行く菊が、歌うように鼻先で笑ったようだった。斜め後ろから見て取れる表情の断片は、いつかと同じように、彼だけ答えを知っているような余裕の笑みだ。それは昔に王がしていた表情でもある。

「あなたは自分が人間ではないから、他人がどのような考えを持っているかで悩んで、疲れてしまったんですね。そして、自分の感情さえも無視しようとしている」

足を止めずに菊が語りかける。草木を掻き分けるがさがさとした音に混じって聞き取りずらかったが、それは確かに自分がずいぶん昔に諦めてしまったことを的確に言い当てていた。

「私のような者や、あなたのようもものでは、考え方に差異があるかもしれません。ですが、嬉しい・悲しいと感じるあなたの心は本物ですよ」

ないものを惜しむのはおかしいことだと思っていた。しかし、惜しむその気持ちこそが、わたし自身だった。
諦め、考えることを放棄した。楽な道に逃げていた。

「大体、誰だって他人の考えを完全に把握しているわけではありませんよ。せいぜい近いところを読み取るぐらいです」
「わたしはいま、自分も知らなかった答えを言い当てられている気がする……」

立ち止まってこちらを向いた菊がくすりと笑う。

「私は、『こうじゃないか』と思っていることを言っているだけですよ。大体あなたは自分で目も耳も塞いでいるんですから、傍から見ている者の方が詳しくて当たり前じゃないですか」
「そう、かな」
「ええ。素直に信じることが大事なんじゃないですか」
「なんだか、詐欺師みたいだね」
「言ってくれますね」

痛くもかゆくもなさそうな菊の素振りに、こちらの疲労感ばかりが募るので、口をきくのはよそうと思った。





何気なくくるぶしまで水につけると、冷たさがびりびりと伝わってきて、とてもじゃないけれど長い間つかっているのは無理だと思った。足をつけた水面にわたしの穢れが広がって流れていくのが見えた。漂う様子は、水の上に油を落とした時のようにゆらりとした丸い輪郭をしていた。自然には浄化する力があるから、漂うそれもいずれ流れに飲み込まれ、溶けて、大地を潤して、光を浴びて、緑から吐き出されるようになると、いつの間にかなくなっているのだろう。
それでも流れていったのはわたしの中のごく一部でしかなくて、自然の浄化する力はごくわずかでしかない。普通の人であればそのわずかばかりの力で事足りるのだろうけど、皮膚から吹き出そうなほどにわたしの体いっぱいに溜まりこんだ穢れが完全に浄化されるのは、この調子でいくと途方もないほど先の話に思えた。

「焦らずにいきましょう」

菊はわたしの足を水から引き上げ、たくさんの布を重ねてあてがった。肌触りのやわらかさとあたたかさが冷えた心にも触れた気がした。

「もう少し北上すると霊峰と呼ばれる山もあります。まあちょっと今回のような用向きには適していないのでしょうが……。その付近では温泉があるそうですよ」
「へえ、行ってみたいな。あの、菊……さん」
「元よりそのつもりですよ。明日にでも行ってみましょうか」
「はい、ありがとうございます」

菊との微妙な距離間に戸惑いはあったが、本当に困っていることに菊は触れなかった。見透かして飲み込んでしまう。



「この辺は冬になると雪がたくさん降るし、寒さが厳しいですよ。南に行けばあなたが生まれた場所もありますけれど?」
「あはは、考えたこともなかったなあ」

包むようにみずみずしい寒さも、白く覆われる世界も、当たり前に思っていた。


「育った場所と似ているから、ここを選んだんだ……」


考えることより先に体が動いていたから、いつだって気がつくのは後になってからだった。
わたしが生まれた場所。””が育った場所。そして””としてわたしが望む居場所。焦らずいこうと言ってくれた菊の言葉を何度も心の中で繰り返した。