なんでもない幾つかのこと




一歩、職場を離れてしまえば、わたしとプロイセン先輩の生活は交わらないのだと思っていた。



。今度飲み会あんだけど、お前来るか?」


どうやら先輩と仲のいい人たちで集まって飲む約束をしていて、それにわたしも参加しないかというお誘いだった。もちろん亜音速で頷くと、先輩は少し困ったように笑った。

「別にこれは仕事とか先輩後輩だとか関係ねぇ飲みだから、嫌だったらそう言ってもいいんだぜ?」
「いえ、むしろ楽しみにしてます。ありがとうございます」
「ん。そうか」

"先輩の言うことは絶対"という気持ちが作用してなかったかといえば嘘になるけれど、楽しみだといったのは嘘ではない。先輩は、詳しいことは後で連絡すると言って、わたしはそれに再度頷いた。



その話をした週の金曜日、何の前触れもなく先輩は「今日だ」と告げて、戸惑いながらもわたしはそれに従った。普段接することのない他部署の人に会うのが分かっていたら、服もメイクももう少し気合いを入れてきたのに……とは口に出すことはできなかった。そして今日のうちに終わらせたかった仕事を泣く泣く来週にまわして、終業のチャイムと共に荷物をまとめ、先輩とふたりでお店に向かった。どうやら他の人とは現地集合らしい。
道すがら先輩とずっと他愛もない話をしていた。最近寒くなりましたねなどと天気や季節の話題からはじまり、冷え性で寝付けないなどの個人情報の提供までしつつ、先輩の返しはわたしにはおおよそ思いつかないような角度から放られる。解決策が分かるにせよ分からないにせよ何かしらを返してくれる。わたしは思いついたことをただ喋って、そのオチを先輩がつけてくれるのがいつものパターンだった。

普段の仕事ぶりや近寄りがたい雰囲気からとてもまじめな人なのかと始めのうちは思ったけれど、流行の芸能ニュースにも通じていたりするので、打ち解けるととても楽しい人だった。


お店の入り口で先輩が予約の名前を伝えると、奥へとうながされた。他の人たちは既に到着しているようだった。個室らしく、先輩の陰から中を覗く。

「あー来た来た。お疲れー」
「おー、お疲れ様ー。先に座らしてもろてるで」

ふたりずつ対面になるようにして4人が座れるテーブルに、先に男の人がふたり陣取っていた。ギルベルト先輩は何やら軽口を返していて、後ろからは店員さんが温かいおしぼりを差し出してくれた。それでもわたしの脳みそは、まだほぐれそうにない。

「おい、ギルー。ちゃん固まっとるで」
「お前、今日のことちゃんと説明したの?」
「したってーの。なあ?」
「は、はい。他部署の方とご一緒だということで……」

男の人ばかりだなんて聞いてない。心の中で泣きながらわたしは答えた。


「だからって、こんな風に3対1になるとは思ってなかったんでしょ?」
「ギルもギルやで。女の子の気持ちになって考えてもみろや」
「ごめんね、ちゃん。ギルベルト、そのへんほんとに馬鹿だから」
「そんなんやから食堂のおばちゃんぐらいにしか話しかけられへんのやで」
「それは別にいいだろ! 大盛りにしてくれるんだぜ!」
「おまっ、ただの老け専かと思いきや、いたいけな女性をたぶらかす悪い男だったわけね」
「あかんわー。ちゃん、さっさとそいつから離れた方がええって」
「あー、なんでそうなるんだよ!」


テンポよく続けられる掛け合いの合間に、振り向いた先輩と目が合った。その僅かな隙を逃さないように、引き止めるように、彼のコートの背中のあたりを両手の指先できゅっと掴んだ。切れ長の瞳をすがるように見上げれば、先輩は困ったように眉をよせて、向きを直した。


「つーか俺達いつまで立たされんだ? お前ら生でいいだろ?」

そして、わたしの目の前に鞄が差し出される。はっとして、わたしはそれを受け取り、壁にかかったハンガーを先輩へ差し出す。

「いやいやいや、何してるん?」
「あ? 荷物持ち」
「うわ、最低。ちゃん、言うこときく必要ないからね」
「あ、いえ。いいんです」
「いんだよ。うちのやり方に文句つけんなよ」

そう言って先輩は、まるで野良犬を遠ざけるようにして手のひらをひらひらと振った。先輩のお友達からはブーイングの嵐が巻き起こる。
先輩と自分のコートをかけ終えてから、空いていた先輩の横へと座る。さすがに初対面の人と何を話していいか分からなかったから、先輩のとなりになれてよかったと、胸を撫で下ろした。

「お前、何にする? メニュー見るか?」

声の調子を抑えた先輩が、となりから尋ねてくる。

「ええと、同じものを……」
「部署の飲み会んとき、いつも違うのだろ。甘いのもあるぜ、ここ」
「大丈夫ですよ。それより早く始めましょう」
「変な気ぃつかってんじゃねーって。好きなの選べよ」
「や、ほんとに大丈夫ですよ」
「……無理だったらすぐに言えよ」


そのまま先輩は声を張り上げて、素早く店員へ注文を終わらせた。

「あ。わた、わたしが! 下っ端が!」
「馬鹿。おせぇよ」
「ええて、ちゃん」
「今日はそういうのなしでいこうよ」
「はい。恐れ入ります」

やさしい先輩達の厚意に甘えることにしてすました笑みで答えつつも、ギルベルト先輩の奥にあるメニューへと手を伸ばした。いつまで経っても何も掴むことができなかったのでちらりと視線だけ向けると、既に先輩が抑えていてこれ見よがしにひらひらと左右へ振っていた。馬鹿にされた気がして、少しむきになって取りに行くと、ギルベルト先輩の平手がわたしの額をぺちっと打ち付けた。

「あいたっ」
「いいから黙っとけっての」
「うー」
「同じこと何回も言わせんなって教えたろーが」


ぴたりと口を閉ざしたわたしと、それをにやにや眺めるギルベルト先輩。





さらにそれをにやにや眺める外野の存在を、わたしは知らない。

(なんやかんやで仲良しじゃない)
(俺らここにいる意味あるん? ウブコントーって、いじったらええの?)