聞こえない振りをしないで




夕方をすぎて、誰もが夜の入り口に足を踏み入れようとしていた。街の明かりが、くもった窓の上でやわらかくにじんでいた。
窓にのばした人差し指を引き戻して、は口の端が意図せず上がっていることに気がつき、よりはっきりと笑みの形をとった。

彼女は約束の時間に少し遅れていた。雪のせいで路面の状態が悪いため、この時期はバスも電車も思うように動かないことが多いが、待ち合わせの相手はきっとそんなことをものともせずといった様子で、時間通りに彼女を待っているだろう。

その姿を想像するだけで、はふわふわと、地に足も着かないような感覚に陥るのだった。



乗客のほどんどが、の目的地と同じ駅前で降車するようだった。急いでいるのになかなか人のはけない不満が充満するバスからようやく抜け出して、彼女は早足になってビルの1階にあるカフェを目指した。
壁の代わりに側面が大きなガラスになっているカフェだった。その窓際の席に、冬の針葉樹を思わせる人影を見つけた。滑らかにカップを口元に運ぶ動作があまりにもいつも通りで、まるで待ち合わせではなく自分の時間をゆったりくつろいでいるように見えた。ただ、彼の乏しい表情とは裏腹の愉快な内面を彼女は知っている。
やがて、眼鏡越しの鋭い視線がの方を向くと、彼女はぱっと笑顔になって胸の高さで手を振った。応えるように男がうなずく。
ゆっくりと動く人波を振り切るようにして、彼女は早足から駆け足へと切り替えた。

切り替えたはずの足が上手く地面をとらえることができず、出来の悪いジェットコースターのように彼女の世界が急にぐるりと回った。










ゆっくりとまぶたを開くと、電球色のイルミネーションが見えた。



呼ぶ声に答えようとすると、いつもと勝手が違ったので、彼女は自分の体が仰向けに寝かせられていることに気がついた。起きようとすると、その背に誰かの腕が添えられる。

「今日、台無しにしちゃってすいません。スウェーデンさん」
「いいがら。頭、痛ぐねぇが?」

何が起こったかゆっくりと思い出しながら、彼女はスウェーデンの方を向く。
彼女が今日見たものの中で、彼の瞳がいちばん綺麗だと思った。冬の夜空に輝く一等星のような青色だった。不機嫌と紙一重な表情は、の容態を案じている。それを申し訳なく思いながら、彼女はそっとスウェーデンへともたれかかった。言われてみれば、打ち付けたところがじわじわと痛い。
するとスウェーデンはなるべく彼女の体を揺らさないように気をつけながらそっと腕で包んだ。冬の冷たい空気を割って、先ほどまで飲んでいたコーヒーや、彼のにおいが伝わってくる。



「あの、わたし、多分もう大丈夫です」
「ん」
「もう大丈夫ですよ」
「だから?」

要領を得ない会話に、は心の中で叫び出しそうになる。離れがたいのは彼女もいっしょだ。

「人が、見ているので……」
「知らね」
「ええっ」

彼女からは表情は見えないが、くっと喉の奥で笑う声が確かに聞こえた。
いつもならば彼の大きな手のひらが、あやすように彼女の頭の上にポンと乗せられるところだが、今日は行き場をなくしてさ迷っている。
その代わりに彼の青い瞳がじっとを見つめた。

「あとで覚えでろよ、仕返し」
「えええ、いや、さっきのは事故」
「……」
「そんな楽しそうにしないで下さい」

いたずら好きなところのあるスウェーデンがほんの少し笑うように口元をゆがめると、観念したようにも思わず微笑んだ。



今日はでかけるような気分ではなくなったので、立ち上がって、駅まで移動しようとする時にスウェーデンがぽつりとつぶやいた。

「心配した」