水曜のレイトショー 何の前触れもなく、目の前のパソコンの変換機能がおかしくなった。打ち込まれるのは、文字の化けた常用ではない漢字たち。再起動しても何も変わらない。 観念しては、押し慣れた内線番号を指先でなぞった。 『はい、システム課です』 落ち着いた耳あたりのよい声は、と同期のエストニアだった。彼女は心の中でため息をついて、簡単なあいさつと自分の名前を機械的に告げた。 『…………、なにか?』 たっぷりの間を置いてから、その声が取り繕うことをやめて高圧的な響きになった。 深く考えると落ち込むので今はそれをしないで、彼女は粛々とトラブルの報告をする。合間にはさまれる相槌が要領を得ないのか素っ気ないものだった。 『よく分かんない。いま、そっちに行くから』 「お忙しいところ、どうもすみません」 『まったくだね』 そのまま電話は切れて、少ししてから彼がやってきた。 「ああ……、なんだこれ? なんでこうなるわけ?」 パソコンを軽く触って、彼はすぐにその異変が厄介なものだと気づいたようだ。思わずこぼれた声は、普段の彼からは想像できないような素っ頓狂な声だった。 「こうなる前に何か変な様子とか、あった?」 「ない、と思うけど」 「何してたらこうなったの?」 「ワードで資料を作ってて、同時にIEも立ち上げてたけど、いつも通りだよ」 「うん」 はじめから期待なんてしていないかのように、彼はパソコンの画面を向いたままうなずいた。忙しく切り替わる画面は、普段操作している時には見ることもないような設定まわりだとかを映している。 「ごめん。少し時間かかるかも」 「それは全然大丈夫。むしろありがとう」 返ってくる言葉はなかった。仕方がない、とは思う。もう何回助けてもらっただろうか。 どうも機械とは相性が悪いようだった。フリーズするパソコン、トナーの切れるプリンタ、紙のつまったFAX。修復を試みるものの、彼女自身はおろか、部署の人間の誰にも手の施しようがないものばかりだった。そうなるとシステム課の人間にお願いすることになる。彼らにも通常業務が圧し掛かっているのに、それとは別に不具合が発生する度に作業の手を止め現場へ向かわなければならない。彼らでないと解決できない類のものだったので、申し訳ないながらも皆がそうしていた。それはに限ったことではない。ただ、彼女の場合はその回数が異常に多かった。そしてその度に彼女の元にやってくるのがエストニアだった。これでは、同期のパワーバランスが崩壊して邪険にされるのも仕方なかった。 は、そっと机の端にあたたかなカップを乗せた。香りに誘われるようにエストニアの視線がカップをとらえ、それからをとらえた。 「なに、賄賂?」 「いや、そうじゃなくて……。そうかもだけど」 エストニアの機嫌をとるためと、助けてもらっているお礼を兼ねてのコーヒーだった。 嘘をつけない彼女が観念してしぶしぶ口を開く様子を眺めて、気づかれないようにエストニアが小さく微笑む。 「エストニアくん、お砂糖1つでよかったよね?」 「うん」 そのまま彼はカップに口をつけて作業に戻った。慣れた様子で彼女の机の奥に追いやられていたコースターを取り出して、その上にカップを置く。彼が使うにはかわいすぎるものだった。もっといえば、彼が座っている席も小物やら何やらがかわいすぎるので、彼自身の持つ直線的な雰囲気からすると違和感がある。合わない絵柄のジグソーパズルを無理やりはめ込んだようなちぐはぐ感。態度こそくだけているものの、彼がそわそわと居心地の悪さのようなものを感じていることを、なんとなくは感じていた。 その日、が着替えて会社を後にしたのは、いつもよりも遅い時間で、夕日が沈み、いよいよ夜の暗さが降りてくるような頃だった。指の先から体の芯まで届くような寒さを覚え、そっとコートの袖を伸ばして手の甲まで覆いながら駅まで向かう途中、エストニアの後ろ姿を見つけた。颯爽と歩く姿に、気まずさとうれしさを混ぜ合わせたような気持ちになった。そうこうしているうちに声をかける機会を逃がしてしまい、一定の距離を置きながら駅を目指した。 前を行くエストニアが急に足を止めて携帯電話で通話をはじめたので、はその横を会釈をして通り過ぎようとする。合わせるつもりがなくても、目が合ってしまう。エストニアのじっとりといぶかしむような視線を受けて、は顔を引きつらせて笑った。犯罪者予備軍のようだと心の中で思っていたのは、他ならぬ彼女自身だ。 「交番突き出すよ?」 「いやあの、ちょっとタイミングつかみそこねて……」 「ん?」 聞こえないふりで泳がされている。貼り付けたような穏やかな笑顔がエストニアの顔立ちのきれいさを物語っていた。美しいものは正しくてそれだけで強いような気さえした。微笑みの圧力に押し負け、はきゅっと小さくなる。 「すいませんでした」 そしては彼から視線を外し、うなだれた。心細さからか己の指先をおへそのあたりで握った。 落とした視線がエストニアの足の向きが変わったのをとらえる。 「ほら、さんも駅でしょ?」 今にも歩き出しそうな彼が、首だけの方に回して問いかけた。 「さっさと行こう」 答えるよりも先に、その声にうながされるように彼女の足が前に踏み出していた。 隣を歩くことに緊張した。それでも歩くことがメインで、視線を彼だったり正面だったり移すことができたので、まだ心に余裕があった。 いざ駅についてからが大変なのだと、は青ざめていた。電車が来るまでホームでふたり、大勢の人の波のなか待つことが、いつもの距離よりも大分近くて、自分のよりも少し高い位置にある肩にいまにも触れてしまいそうな距離だった。 無言で待つことに耐えられずに中身のない問いかけをするものの、雑音にかき消されてほとんど彼の元に届かない。 すると、彼が頭をの方に少し倒した。 「この時間ってすごく混むんだね」 「さん、いつもはもっと早いんだっけ?」 「そう。朝も少し早めに出るからこんなのはじめてで。エストニアくんはいつもこの時間なの?」 「この時間か、もっと遅いか……」 そこで機械の音声が、もうすぐ電車が到着するのをアナウンスする。レールの向こうを見つめると、明かりが徐々に大きくなってやがてふたりの正面でドアが開く。 人の移動に合わせて熱気も流動する。車内はすでに人でいっぱいになっている。 「さん」 前に進まなければ、足を踏み出さなければ、それは彼女にもわかっていた。踏み出そうにも一体どこへ。彼女の体1つが収まるようなスペースがあるとは思えない。あるとすれば、振り向いて彼女の前を向いているエストニアの正面くらいだった。なんとも言えない表情の彼も、早く乗るようにと言っている。 間に腕を挟んで、は彼の前に立った。くっついてしまわないように気をつかい、少し距離を開けた。どこを見ていいかわからず、自分の肩のあたりを見ていた。 油断していたら後ろからさらに人が乗り込んできて、結果エストニアの胸に自分の耳をぴったりとつける形で密着してしまったまま電車は走り出した。 「ごめん、ごめんね!」 「別に。それより大丈夫?」 「は、はい」 「何それ。この、箱入り」 からかわれた、と思って彼女が反論しようと顔を上げると、エストニアが楽しそうに口を真横に押し広げて、「静かに」と言っていた。その頬が心なしか薄く染まっている。 きっと自分の方がもっと赤くなっているだろうとは思い、隠そうとして自分の頭を彼の胸へと押し付けた。彼の心臓も穏やかとは言えなかった。 |