愛に服従せよ




ガス抜きをするみたいにして、ふうっと息を吐いた。知らないうちに疲れていたのかもしれない。
持ち上がらない足を地面にこするようにしているせいで、サンダルがアスファルトにこすれる音が気だるそうだ。たくさん歩いた日だったから、足が痛かった。
駅から家までの道のりが、いつもよりも長い。


「おー、

自動販売機が勢いよく缶ジュースを落とす音が、日中に比べて静かな夜のなかには不似合いだったから、一瞬だけ響いた音がやけに耳に残った。
機械の明かりが、蔵ノ介のあたりだけ照らしている。

「蔵ノ介ー、ポカリー」
「あらへんわ。アクエリでええかー?」
「えー。ならコーラお願い」
「全然ちゃうやん」
「あはは」

そう言いながら、同じように鈍い音で落下したジュースを差し出してくれる。

「やった。ありがとー」

はじける炭酸といっしょに吹き飛ばしたいものがたくさんあった。ため息を吐くように、炭酸を飲むように、自分をごまかしながら心のバランスを保とうとしていた。
くたくたの体を引きずるようにして彼の元まで行くと、案の定いぶかしむような表情で迎えられる。

「どないしてん、それ?」
「ただの歩き疲れ」
「あー、そらご愁傷様です」


冷たい汗をかいたアルミ缶を受け取って、あたりを見回す。近くにあった公園の植え込みまで伸びる塀の背がそれほど高くなかったので、そこに掛けて一休みしていこうと思った。
ジュースのお礼を言って、公園の横で休んでいくことを伝えると、蔵ノ介もいっしょに休んでいくと言った。さっきまで軽く走っていたらしい。シャツの胸のあたりをつまんでぱたぱたとさせ、汗臭かったら堪忍な、と笑った。
さわやかな笑顔だったし、別に彼の言ったようなことは気にしなかったから、わたしも思わず笑ってしまった。





コンクリートでできた腰くらいまでの高さの塀に掛けたら、服越しでも少し冷たかった。でも徐々に熱が伝わっていって、慣れれば平気だった。数本先の道路は交通量が多いけれど、わたし達がいるのはそこからいくらか外れていて、喧騒だけをやや遠くに感じていた。
てっきりとなりにいると思っていた蔵ノ介の気配を足元に感じると、片膝を折ってそこにいた彼が、わたしのサンダルに手をかけていた。

「ひ」

悲鳴になりきれないそれが、思わず口をついた。

「な、な、な、何してんの」
「うわー、痛そうやな、これ」

やさしい手つきでサンダルを脱がし終えた彼が、目を丸くしたわたしに気がついて、盛大に吹き出した。
数秒前までの恥ずかしくてどうにかなりそうなムードが、一瞬でぶち壊れた。



サンダルを塀に預けて、蔵ノ介もそこへ掛けた。プルタブに手をかけたので、わたしもそれに倣う。
もらったジュースを勢いよく流し込むと、喉にくる刺激で涙目になる。

「くぁー!」

それでも、爽快だった。しばらくその余韻でぎゅっと瞼を閉じる。

「おっさんか」

横から軽口が飛んでくる。
仕事終わりの1杯と、お風呂上りの1杯と、いまのわたしの1口は、きっとみんな同じようなもので、日常のなかの小さな喜びだ。彼の言ったおっさんの気持ちが、いまのわたしにはよく分かるから、特に否定はしなかった。




蔵ノ介は自分の分をほとんど全て飲んでしまったみたいで、塀の上にその缶を置いた。土の中のもぐらに向けてのノックのように、まっすぐな音が下にのびる。


「なぁ、そないにおしゃれして、今日どこに行ってきてん?」


さっきのは、もぐらへの挨拶なんかじゃなかった。例えるなら、映画の撮影に使われるカチンコの拍子木の部分を打ち鳴らし、シーンが転調する合図。

「別に、おしゃれとかそんなんじゃないし」

頭から足までを蔵ノ介の視線が行ったり来たりしている。
急に蔵ノ介の顔が見れなくなって、足を真っ直ぐのばして指先同士をくっつけたり、離したりした。

「なんや、彼氏か?」
「……関係ないじゃん」
「んー……。まあなあ」

声の調子だけでは、彼が何を考えているかなんて、読み取れなかった。

「……そういうのじゃ、ないよ」

まだ。
好きかどうかもわからない。自分よりも、まわりが盛り上がっている。今日だって1日いっしょにいたけれど、正直たのしいとは言えなかった。
それでも、きっとそうやって流されるようにしていって、いずれはどうにかなるのかもしれない。諦めているくせに、完全に納得はしていない。相手に対して失礼なことをしているけれど、きっぱりと断る勇気もない。



ふたりして言葉もなく、ただずっと夜のなかにいた。

「……帰る」

他の誰でもなく、蔵ノ介に相談できるわけがなかった。このままここにはいられない。
帰ろうにも、わたしのサンダルは蔵ノ介が持っている。手を出して催促するものの、彼がそれに応える素振りは見られない。

「なぁ、今後そいつと付き合ったりするんか?」
「わかんないよ」

バッグを体の前に持ち直して帰るための準備をしていると、中の携帯電話がぶるぶると震えた。取り出すと背面ディスプレイに男性の名前が表示される。蔵ノ介の目がそれを見つけて一瞬鋭くなったと思ったら、あっという間に携帯電話ごと彼の手に覆われてしまった。

「そいつのこと好きなん?」
「……」

「ていうか、俺のことどう思ってる?」

ぐっと、重ねられた手のひらに力がこめられた。


その質問はずるい。きっと彼は、わたしの気持ちなんて随分前から見透かしていたはずだ。彼の手を振りほどこうとしても、びくともしない。
ささやかな抵抗はまるで役に立たず、うつむくわたしにもう1度同じ台詞が降ってきた。




名前を呼ばれて、わたしは顔を上げた。
蔵ノ介はじっとこちらを見ている。わたしの言葉を、彼にとって都合のいい言葉を、待っている。

「……言いたくない」

唇を尖らせて、思わずそっぽを向いた。悔しかった。
きっと顔は真っ赤だし、目だってうるんでいる。
勝ち負けではないにせよ、ふたりが同じような未来を望んでいても、自分から素直になることはできなかった。


蔵ノ介が何も言わなかったので、視線だけそちらに向けると、びっくりするくらい近くに彼の顔が迫っていた。

わたしと同じように照れて拗ねた表情をしていたが、やがてすっと瞼が閉じられ、気がついたら唇が重なっていた。重ねた手と逆の手が、わたしの背や頭に回されていて、支えてくれていた。
どれぐらいそうしていたかわからないけれど、溺れた時のように何かを掴もうともがいたわたしの手が飲みかけの缶を倒してしまうまでそうしていた。





手や足がコーラでべたべたになってしまったが、パニックに陥ったわたしは、そのまま蔵ノ介の胸やお腹をぽかぽかと殴りつけた。
くすぐったいように蔵ノ介が笑う。それがさらにわたしの羞恥心を煽る。
軽い力で殴っているのが、わたしからの答えだ。それがまた悔しくて、永遠に殴り続けようかとも思ったが、蔵ノ介にやさしく抱きしめられたらその力もどこかへ消えてしまった。