相談しましょう、そうしましょう




愛しい後姿が人の波にかき消されるのを確認してから、くるりと踵を返す。そこから4歩。そこがわたしの限界だった。
こみ上げるいろいろなものが溢れてしまわないように息を止めてこらえるけれど、数歩の間に限界が来てしまうのだった。だから、そこで立ち止まってそっと息をする。
約束と時間に追われる人たちの行き来が多い空港内で、足を止めるわたしは不似合いで、多くの視線を集めはするけれど、次の瞬間には忘れ去られてしまう。たくさんの人の中にいるのに、ひとりぼっちなのだと感傷に浸ってしまう。そう思ってしまったら、もう手遅れだった。


忙しい人だから、引き止めることはしてはいけないと思っていた。みっともなく縋ってしまえば、きっとわたしから離れていってしまう気がした。ふらりと立ち寄ってもらえるだけで十分で、先の約束すら交わしたことがない。嫌われて、捨てられてしまうのが怖かったから。
言えなかった台詞を飲み込んで、最後は柔らかく手を振って別れる。いつかは分からない、彼の次の来訪を祈りながら。


今回の来訪が楽しかったから、欲が出てしまった。自分の感情にふたをして、なんともなくやり過ごすべきだった。いつものように。そうやってこれからも同じことを続けていくのが、ふたりにとっての最良のはずだった。
彼といっしょにいる間は我慢できたが、別れてしまうと数秒ともたなかった。波はいつもよりも大きく、爆ぜた感情が元通りになるまで時間がかかりそうだった。支える気がないと頭は重たいのだと、うなだれて立ち尽くしながら考えていた。頭だけじゃなく全身が重い。せめて壁際に移動したかったが、体が満足に言うことをきかなかった。わかってはいたけれど、今回は重症だ。

















聞こえるはずのない声がすぐ近くで聞こえた。わたしを呼ぶその声は、いつもと同じように甘やかだった。とうとう幻を作り上げるほどわたしも限界なのかと、悲しみで鈍った頭でぼんやり思った。自分のものではない体温と、もう馴染んだその香りは、いまのわたしが求めてやまないものだ。

本当は、わかっている。顔を上げればそこにはフランスさんがいる。


「そんな顔しないで」

細くて長い指がそっとわたしの頬に添えられる。うつむいていた顔が持ち上げられ、柔らかく包むように微笑むフランスさんと向かい合った。濡れてべたべたする頬を彼がハンカチでそっと拭ってくれた。自分が取り乱している分、変わらない彼の笑顔を見ていると気持ちが落ち着いていくのがわかった。彼にもそれは伝わっていて、十分に落ち着いてから通路の真ん中から壁際へと移った。


「戻ってきて、正解だったな」

彼の瞳がわたしのぐちゃぐちゃの顔や、不安で揺れる心まで見透かすようにしている。
それに対してわたしは首を左右に振って応える。頬や首筋に髪の毛が跳ねる。彼には大事な会議の予定があるはずだ。

「フランスさん、お仕事……!」

邪魔をしてしまったのではないかと、体内を冷たい血が駆け巡る。
すると彼は手のひらを目の前に出して制するような仕草をしてみせた。やっぱりそういうことを考えていたんだ、みたいなことを小さく開いた口からこぼすと、「ちょっとごめん」と言って携帯電話を取り出した。



くるりと背を向けて、彼の流麗な言葉づかいを聞いていた。内容ははっきりと理解できなくて、どうやら彼の家の言葉で話しているようだった。普段わたしと話しているときとトーンが違うとか、スピードが違うとか、分からないなりにも発見がある。まじめな雰囲気ではあるけれど合間に笑い声が挟まっていたりして、すらりとしたスーツの背中がその度に上下に揺れていた。人の心を掴むのが上手いのは、どんな時でも同じかもしれないと思った。
通話を終えて電話をぱたりと閉じると、またくるりとこちらに向き直った。

「さてと。俺、ちょっと体調が思わしくなくてさ。もう少しこっちに滞在して療養することになったんだけど」

少しおどけてそう言って、彼は笑う。

「俺の部下はみんな優秀だから、なんとかなるとして。仕事を蔑ろにする俺のこと、嫌いにならないで?」

途中から声を低くして囁いた。さっきまでは喧騒の中にいたのに、少し壁際に移っただけで、小さな声も残さず拾えるようになった。わたしの耳はこの声を聞くために神経がいつもよりたくさん仕事をしているみたいだ。
耳あたりのよい声がまっすぐ胸に響いて、きゅんと揺らした。弱いところを先回りで突かれ、わたしは何も言えなくなってしまう。


「あとで先方にもきちんとお詫びをするよ。今日だけ特別なんだ」


特別? 言葉ではなく表情で彼に問いかけると、彼は先ほどの携帯電話をもう一度取り出した。画面の日付を指で示され、その意味が分かった時わたしは驚いて画面と彼とを何度も見比べてしまった。


「俺が勝手にしたことだから。が気に病むことは1つもないから」
「そんな、だって」
「俺、不安だったんだ。はまじめだから、仕事放ってきたら嫌われちゃうかな、とか」
「……」

嫌いになることはないけれど、その部分が引っかかていただろうと思った。
でも、そこを先に謝られたので、その問題はさらりと解決してしまった。


「どっちが大切とか比べることができないことだけど、泣いてるを見てたら、あー戻って正解だったなって思った」

かあっと頬が赤くなる。子どもじみた姿を見られて恥ずかしい気持ちもあったけれど、目の前の彼を動かしたのがわたしなのだと思うと、別の種類の恥ずかしさとうれしさが混ぜ合わさった感情が湧き上がってきた。


「そんな風にどうしようもなく泣いちゃうくらい俺のことすきってことならうれしいな」
「すきです。フランスさんのこと」
「ありがとう。うれしいよ」


いつも余裕な態度ばかり見ていたので、緊張をほどく様子が珍しくて覗いていると、それに気づいたフランスさんが苦笑した。

「言っても信じないと思うけど、俺かなり一か八かの賭けに出たんだよ」
「うそだあ」
「……ほら、信じない」

反射で口をついた言葉に慌てて、後から両手で口元を押さえた。
拗ねた様な彼の視線と、驚いて丸くなったわたしの視線が、絡み合って溶けて混ざって、最後はふわりと空気になった。