20.あなたが生きていたら





飛行機に乗るのは、初めてだった。鈍重な動作で広い滑走路を行くたくさんの機体を見てまず感じたのは不安だった。轟音が空港のガラス窓を振動させて、耳をつんざく。
菊が慣れた様子で搭乗手続きを済ませる。その後を着いていき、ゲートをくぐって機体へ足を踏み入れた。乗り物というよりは、移動できる建物のようだった。これが空を飛ぶのか。これほど重いのなら、落ちてしまうのではないか。
案内された席へそのままかける。わたしの様子を見て、菊が涼しい顔で告げる。


「飛行機事故は交通事故より少ないらしいですよ」


彼も自分の席について、シートベルトをかちりと締めた。


「向こうまで長いですから、ゆっくり休んでいくのもいいかもしれませんね」


菊に倣ってシートの脇からベルトを取り出して体の前で止めた。しばらくすると、決まった台詞を読み上げるだけの事務的なアナウンスと簡単な説明の後に、なんともないことのように飛行機は離陸を始めた。
初めのうちだけシートに縫い付けられるようだったが、安定してしばえばそこは1つの部屋と変わりなかった。背もたれによりかかり、することもなかったので菊の様子を確認してみると、ポータブルDVDプレイヤーを取り出していたところだった。イヤホンを装着してほんの少しだけ口角を上げているので話しかけるのはよそうと思った。
その瞳がきらきらと輝いている。楽しそう。



ギルベルトといっしょに彼の元へやってきて、今日初めてその外へ出た。世の中はとても便利になっていた。禊をするために山の奥の奥の方にいることが多かったので、知識として分かっていても体験していないことの方が多かった。
それはとても長い年月だった。かっちりとスーツに身を包む菊に対する違和感も少なくなったくらいに。彼の適応力の高さはこの際置いておくとして。たまにしか顔を合わせなかったが、あの夏の日の後、割りと早い段階から菊は豊かさを身につけていたようだった。
そして彼は突然切り出した。ドイツに行かないか、と。

頃合いだったし、自分自身もそうしなければならないと思っていたところだった。ギルベルトの弟にも叶うのならば挨拶をしておきたかった。菊がその彼と親交があるらしく、どうやらすんなりといきそうなのが幸いだった。
それからあれよという間に飛行機に乗っていたのだから驚きだ。荷物は少なかった。着るものは菊が快く与えてくれた。今まで着たことのないような服に袖を通す。
それが終わればわたしには何もなくなるだろう。身の穢れを祓ったら都合よく力もなくなっていた。ただ永らえるもの。これから毎日の生活を続けていくことを、上手く想像できなかった。



秋というよりは冬の前だった。到着する頃にはすでに日は暮れていて、外気がひんやりと肌を刺す。
やけに混み合っている空港内を出ると迎えの車が来ていて、荷物をトランクに放り込み、後部座席へと乗り込んだ。得体の知れない緊張感で上手く話すことができず、熱い手のひらをぐっと握り締めていた。
やがて大きな建物の前で停車し、菊に促されその中へと進んだ。個人の家ではなく庁舎のようだった。あたりは暗くなっているのに、みんな忙しそうに手足を動かしていた。その横を通り過ぎて、大きな木のドアをノックする。

「はい」

中から聞こえてきたのは、低い男性の声だった。

「本田です。入ってもかまいませんか」
「ああ」

仕立ての良いスーツ越しにも体格の良さが伝わってきた。地にしっかりと足がついている精悍な立ち姿は、根を張りそびえ立つ巨木を思い出させた。鋭さの奥には、たくましさと安心感がある。


「はじめまして」
「はじめまして」

間に菊を挟んで挨拶をする。そのまま取り持つようにして、菊が簡潔に互いの紹介をしてくれた。
戸惑いを声にのせて、ぎこちなくの会釈はお互い様だった。
首が痛くなるほど見上げたところに彼の頭がある。

「ルッツくん……なんだよね」
「ええ」

まだ固い様子で、彼はつながる言葉を探しているようだった。それを待たずにわたしは続ける。

「ギルベルトからよく話を聞いていたよ。でも結構前の話だったから、もっと小さな男の子を想像してた」

目の前の彼がこそが、ギルベルトのかわいい弟のルッツくんことルートヴィッヒ。わたしのイメージとは大分かけ離れた姿をしていた。今や立派な大人の男性になっている。きっとギルベルトよりも大きいだろう。
記憶の中のギルベルトと比べるようにじろじろと不躾な視線を投げ掛けていたら、ルートヴィッヒが苦く笑った。

「兄さんは、はじめのうちは過保護というか、すごくやさしくしてくれたから」

どうやら彼は、昔のことを思い出していたらしい。相変わらずの苦笑いだったが、目元がやさしく細められていた。


「可愛がってたよね。本当によく話を聞いたよ」
「俺もです。さんのこと」
「そうなんだ」
「小鳥みたいだとか」

懐かしい彼の言葉が蘇ってきた。

「なんなんだろう。その、小鳥って」

恥ずかしい気持ちが駆け上がってきて、隠すように顔をくしゃりとさせて笑った。

「なんとなく分かるような気がします。その髪が」
「鳥の巣みたいって?」
「……ゴホッ。そういうわけじゃ。明るい金色でふわりと軽そうなところが、生まれたての雛みたいだ」
「そういうお二人の髪の色は、よく似ていますね」


菊に指摘され互いの髪の毛を見やった。

「ルッツくんはつやのある金髪だね。ギルベルトのあれはもう白髪なんじゃないかな」


わたしの下手な冗談に合わせて、ルートヴィッヒが大人っぽい顔で微笑んだ。彼は不器用なところがあるかもしれないが、照れ屋でいい人のように見えた。




「それじゃあ、時間までゆっくりしていってください」
「時間? 何の時間?」
「え……」

ルートヴィッヒの顔のパーツが中央にぐっと寄った。特に、眉間のしわが深い。リアクションの薄そうな彼が、信じられないと態度で言っていた。
それから少し考えるような間をおいて菊の方を向き、静かに問いただした。

「おいホンダ。まさか……」
「ええ。まだお話ししておりません」


何事もないかのようにされりと菊が答える。それを受けてルートヴィッヒは、額をおさえて深いため息をついた。何のことを話しているかつかめないわたしは、続きを知りたくて焦れたが、あまりに真剣で割り込めるような空気ではなかったので口をつぐんで二人のやり取りを見ていた。

さん。驚かないで聞いてほしいんですが、今日、兄さんが帰ってきます」
「え?」
「まあ、驚かないでというのも、無理な話かもしれませんが」
「というか、驚いてほしいために今まで黙っていたのですから」
「ホンダ! 話が進まないからやめろ! ……あと、お前ってそういうやつだったか?」
「ふふ。あなた方が言うところのサプライズというもののつもりだったんですけれど」
「ちょ、ちょっと待って!」

ふたりに待ってほしいというよりは、時間が進んでしまうのを立ち止まってこちらを振り向いて待っていてほしいような、そんな気持ちだった。考えをまとめて整理する時間と、ゆとりがほしい。



「ギルベルト、いるの?」


いるの、とはまた漠然とした問いかけになってしまった。でもそれ以外にどう表現していいかわからない。




地図は形を変えてしまって、そこに名前は見当たらない。
だからもう、会うことはできないと思っていたのに。


「います」
「ええ、いますよ」
「そっか……。そうなんだ……」

目的だけが宙に浮いているのかと思っていた。

さん。よかったですね」
「うん……」

菊の静かな声音が、穏やかさをもたらす。


「はじめは本当にいるかどうかわからなかったんです。いるとわかったのはわりと最近の話で。そこから帰ってくるまでにもいろいろと面倒事が続きました。あなたを不安にさせてしまってすみませんでした」
「ううん、菊さんが悪いわけじゃないよ」
「今夜、他の帰ってくる者たちも含めてちょっとした催しをするんです。準備ができたら呼びます。よかったらそれまで、休んでいてください」
「ありがとう」

重なるルートヴィッヒの低音。



だんだんと胸の奥から思いがこみ上げてくる。びりびりと頭の先から足の先まで鳥肌が立つような興奮が駆けた。目の奥もじんと熱い。