オレンジとチョコレート




おいしい食事に心まで満たされて、がデザートを、蔵ノ介もデザートとそしてコーヒーを口にしている時だった。半分だけスプーンを進めたデザートをいつものように蔵ノ介が差し出してくれる。が迷って、選ばなかった方のデザートだった。

「うわあ。これもおいしいねえ」

感覚が近いのはとても大事なことだと、口の中に広がるオレンジとチョコレートのムースを味わいながらは思った。これならどちらを選んでも正解だった。おいしい。むしろ、どちらも食べることができて贅沢な気持ちにさえなった。

「はは、そらよかったなあ」

短い言葉の中にも気持ちがこもっているのを感るから、何気ないやりとりすらあたたかかった。
何度も口の中をもぐもぐとさせながら幸福を転がしてゆっくり胃へと落とし込む。ふとが視線を上げると、コーヒーの湯気の向こうで蔵ノ介が笑っている。

「ねえ、砂糖もミルクも入れないコーヒーって苦くないの?」
「その質問今さらすぎひん? 俺はもう慣れてもうたから気にならんなあ。がコーヒー苦手やからやろ」
「そうだね。でも香りは好きなんだよ」

はぱたぱたと手で仰いでコーヒーの香りを自分の方へと引き寄せる。
なんだか先ほどから違和感を感じていた。そんなに大きなことではないのだろうけれど。フォークを持ったままの手を行儀悪くテーブルについて、その正体を探るようにじっと彼を見つめた。
美人は3日で飽きるとよく言われるけれどそれはきっと嘘で、付き合いの長い見慣れた顔であっても蔵ノ介を正面から無言で見つめるのは体力が必要なことだった。胸の奥がどくどくと跳ねて、運動した後のせわしない動きに似ていた。適当な話題で意識を逸らしながら、違和感の正体――彼の瞬きが多いことに気がついた。


「蔵ノ介、前髪いつもより伸びてる?」

すると少しばつの悪い表情をして、蔵ノ介が指の横腹で前髪を浮かせながら言った。

「最近色々あって、切りに行けんかってん。俺としたことが」

そつのない蔵ノ介にしてみれば珍しいことだったが、にはそれほど重大なこととは思えなかった。ただ彼の表情を見る限り、彼にとってはそうではないようだ。自他共に認める完璧ぶりを半ば冗談交じりでいつも通り口にしたが、どこか悔しさの色がにじんでいた。
常に非の打ち所がない彼だったが、完璧さを追い求めて窮屈になってしまうのは本末転倒な気がしたし、彼はその辺のバランスの取り方がとても上手だったはず。指先で前髪をつまみながら彼がつぶやく。

「自分で切ろかなあ」
「はさみ持ってるの?」
「いや、ただの文房具用のはさみやけど」
「えっ、だめだよ!」

存外強い口調になってしまったので、双方驚いていた。はっと気づいて口元を押さえるが、そのまま恥ずかしそうに俯いてしまう。

「おかっぱみたいに変に揃っちゃうから。前髪で結構印象変わるし」

気を取り直しておずおずと口を開き、蔵ノ介の様子をうかがう。全く気にしないで蔵ノ介はの言葉にうなずいていた。

「確かうちに髪切る用のはさみあったから、このあと来る?」

互いの家を行ったり来たりするのは、今や自然なことになっていた。












荷物だけ先にリビングに置いて、蔵ノ介にはそのまま玄関で待機してもらった。そうしてがリビングから普段使っているPCデスクの白いソファと木を組み合わせた折りたたみのいすと、古い新聞紙を1部抱えて戻ってくる。玄関のコンクリートに直接いすを置いて、そこにかけるよう蔵ノ介を案内する。ついでに新聞紙も手渡した。

「ええと、はさみはさみ」

くるりと向き直して、後ろの洗面所へとが消える。何気なくつぶやく彼女の声と、がさごそと物を除ける音が玄関にも届いた。何やら奥まった場所にしまわれていたようだったが、場所は確かだったのでそれほど時間はかからなかった。
やがて洗面所の電気が消え、はさみとくしを手にしたが暗い顔で玄関に再び戻ってきた。

「人の前髪って緊張するなあ」
「くどいで、何回目やそれ。ええか、人生切ったモン勝ちや!」
「なんでそんなにご機嫌なの。蔵ノ介の前髪なんだよ?」

簡素ないすに小さく座ったままの蔵ノ介がにこにことうれしそうに肩や手足を揺らしていた。それとは対照的に、は失敗した時のことを想像してブルーになっていた。
それこそ前髪で印象が大きく左右される。が好きな、蔵ノ介の自然体でいながらにきちんと整っている彼のまとう雰囲気が損なわれてしまったら。考える度に、手の中のはさみが重く冷たく感じるのだった。

「別にどんなんなっても気にせえへんから」
「う、うん」
「まあ俺の彼女に限って失敗なんかありえへんやろ」
「なんでそうプレッシャーかけるかなあ……」
「冗談や。俺、髪型とかそんな気にせんから、多分が失敗しても気付かへんよ」

蔵ノ介は冗談は言うけれど、嘘は言わない人だ。
優しくなだめるられた訳ではないのに彼女の気持ちはすっと収まって、落ち着いた彼の笑顔を見ていたらいつの間にか丸め込まれてしまった。それは決して嫌な気持ちではなくて、的確な言葉でそれも自然にの不安を軽くしてくれた。
玄関に直接置いたいすに座った蔵ノ介より、さらに1段高い場所にはいたため、普段あまり見慣れない角度からの視線にどぎまぎする。


「……じゃあ新聞紙胸のあたりで広げててね。どうしよ、ごみ袋かぶった方がいいかな」
「前髪だけやからええやろ。よし。ほな、たのんます」


すっと瞼が閉じられ、長いまつげが行儀良く伸び並んでいる。特別なことなど何1つないのに、急に気持ちが込み上げてくる。たまらなく好きだなとか、こういうの幸せだなとか。浮ついたままだと切るのに失敗しそうな気がして、気持ちを切り替えるべくは彼の前髪の流れをを手持ちのコームで何度か整えた。
少しずつ毛先にはさみを進めた。すっとまっすぐに伸びた張りのある男性らしい髪の毛だった。はさみの音と共に、広げた新聞紙の上に雪のように積もっていく。

言葉を交わすことなく真剣に取り組んでいた。大体の長さを揃え、顔の形に合うように素人なりに調整を試みる。
切りやすいようにあごを引いている蔵ノ介のほおのあたりの輪郭にそっと触れて持ち上げるようにする。それだけで意図が通じたのか蔵ノ介も自分で顔を上げる。ただ、目をつむっていたので本人が思っている以上に上げすぎてしまった。

「正面。で、ちょっと目開けてみて」
「んん」

は両方の指先で蔵ノ介のほおを挟んだ。微妙な角度を整えてから、じっと前髪と顔のパーツとのバランスを眺めることに集中した。少しでも意識がそれると、息がかかるくらい互いの顔が近いことに動揺してしまいそうだった。あくまで事務的に、淡々と。そう心に言い聞かせていた。

「はい、閉じていいよ」

音もなく再び瞼が閉じられる。前髪を持ち上げてはさみを縦に入れた。






「うーん」

これ以上はもう何をしたって変わらないだろう。唸りながらははさみを止めた。

「一応、終わったよ」

何かが違う。大きく失敗したわけではないが、いつもの蔵ノ介とは違う。蔵ノ介に鏡を手渡して、自分ははさみを置くため洗面所へ向かった。そのまま蔵ノ介の方を見ないでは言う。

「ごめん。何か違うよね」
「んなことないで」

蔵ノ介が指を立てて生え際のあたりに空気を含ませるようにかき混ぜた。

「よっしゃ。ありがとな、

いつもと同じというわけにはいかなかったが、いつもに近い前髪になっていた。そんな蔵ノ介のおかげでの心のもやも段々晴れていく。ありがとうはわたしも同じだと、は少し泣きそうになった。

「しかしええな。彼女が俺の髪を切ってくれるという、ロマン……」

なんだか晴れやかな顔で蔵ノ介が言うので、は思わず吹き出した。

「蔵ノ介って結構ベタだよね」
「いやいや、そのベタなんが大事なんやって。でもなあ、ベタついでに」

手鏡を返されてとりあえずは近くの流しの台にそれを置いて、代わりにスーパーのレジ袋を取り出した。

「目つむっとる間になんかあるんやないかっていうんも、またロマンやってんけどな」
「はは、わたしも目が合ったとき、蔵ノ介何かしてくるんじゃないかって思った」
「何やそれ。ちゅうか、俺ばっかやん」

前髪の乗った新聞紙を蔵ノ介から受け取り、は先ほどのレジ袋の中にそれを入れた。

「わたしもどきどきしたよ。でもさ、髪の毛散っちゃうと思って」


袋の口を縛って、ごみ箱に捨てる。

「我慢してたんだよ」
「ふうん」

着ていた服に細かな髪の毛がついていないか確認していた蔵ノ介が顔を上げた。なんだかくすぐったそうな面食らった表情。鼻筋のあたりに切った髪の毛が張り付いていたのでは指先でそれをはらう。

「じゃあ、改めまして」
「これは。ご丁寧に」

は蔵ノ介の肩に自分の手を置いて、珍しく自分から顔を近づけた。静かに口づけ、そして離すと、ぎゅっと蔵ノ介の腕に包まれた。なんだか嬉しそうにしているけれど、それはやっぱりこちらも同じだと、はまるで猫のように彼の腕のなかですりすりと頬を寄せた。