ネロ が 笑う
















3人のうちのひとりが筆を止めた。書き終えていた竹簡の墨が乾いたことを確認してから紐をむすび、机の中央に投げた。
竹特有の高く乾いた音が少しだけ響いて、竹簡を投げたその男はふたたび筆をとった。その際に、
となりにかけている女をちらりと盗み見て、そのまま固まった。


冬特有の乾燥した空気に、のどがひりりと痛む。規則的な寝息が彼女から聞こえる。





「めぐみ!何を寝ておるのだ、この馬鹿めが!」

急な大声に貧弱な体がついていけなかったのか、司馬懿は怒りで肩をふるわせながらごほごほと咳き込んだ。








「無駄なことに体力を使うくらいなら、少しでも仕事を減らしてくれないかな、司馬懿」
「無駄なこととは、めぐみを起こすことですかな、郭嘉どの」


そうだね、とあくまでやさしい声で郭嘉は答えた。そのときに、一度も司馬懿の方を見向きもせずに。
司馬懿はそんな彼の仕草に腹を立てたが、それこそ「無駄なことに体力を使うくらいなら仕事をした方がましだ」と思い直して、
しぶしぶながらも出かかった悪態を乾いた空気とともに飲み込んだ。


意外に表情筋の豊かな彼を、郭嘉は横からじっくりとながめていた。豊かなのはきっと、腹を立てる・他人を蔑むなどに特化されているのだろう。
ひとしきり感想をのべて、やがて司馬懿の観察も飽きたのか郭嘉は再び筆をとり、その整った顔を竹簡と顔を向き合わせた。
それから少しもせずに、竹簡で顔を隠して、司馬懿にはわからないようにして、ひそかに怠けることを決めた。仕事にも、飽きたのだ。





もともと、何かに執着するようにできてはいないのだ。ぼんやりと郭嘉は考えていた。
実際、仕事に対しても、女性に対しても、それは一緒だった。もし、司馬懿やめぐみがいなかったら、
山のような仕事などはすべて部下に押し付けて、自分は城下でよろしくしているところだ。

他人の目とは、なんとも煩わしいものだ。胸のうちの、ほんとうの自分が毒をつく。
こういうときは、とにかく何もしたくなくなる。ただひたすら呆けながら、時間が経つのを彼は待っていた。









そのときかたりと音がして、驚いてそちらを向くとめぐみがちょうど寝返りをうったところだった。
彼女の寝顔がこちらを向く。そして猫がよくするように、頬を枕がわりにしている自分自身の腕へごろごろと気持ちよさそうにこすりつけた。


普段は涼しげな美貌で、いつも不機嫌そうに表情をゆがませながら傍若無人にふるまっているが、
逆にそれが女性ながらよくできる文官だというイメージの元になっているように思える。
実際、仕事もよくこなしているし、女性という不利な条件がなければ、これからの出世が期待できる若いもののひとりだった。




その彼女は寝顔でも不機嫌そうにしていたが、なぜだか郭嘉はそれから目が離せなくなっていた。
白磁の肌は血が通ってうっすらと赤く染まり、作り物のような美しさの彼女がひとりの人間だったと再確認させる。




そこで郭嘉は、自分がはじめて女の寝顔に興味を持ったことに気がついた。たくさんの女と夜を共にしたし、
たくさんの寝顔も見てきたがどれも見たとたんに興が覚めた。女との交わりは、一時的な楽しみでしかなくそれ以上でもそれ以下でもなかった。
日が昇る前に郭嘉は寝台をあとにする。そのころには、その夜に抱いた女の顔などすっかり忘れてしまっていた。

めぐみは違う。夜を共にしたことはないし、美しい容姿をしていると思っていたが、そのくらいだった。





ともあれ、女の寝顔に見入ることは郭嘉にとってはじめてだった。
そして彼は、頭のよい女性はすきだとつぶやいて、竹簡の紐をほどいた。