は暖炉のわきに置いてあるソファにあぐらをかいて座っていた。
目の前の男は、誰に見せるわけでもない報告書に今日あったできごとを書き留めている。彼女はそれをじっと見ていた。
一年のほとんどを雪でおおわれているような地方の街だ。報告書にとりたてて書くようなことは、もう何年もおこっていない。
モノクロームの世界はゆっくりとうごく 。oO
「きのうね、読んだ本」
ちょうど報告書を書き終えたらしい男に、言葉を不自然にくぎってははなしかけた。
ん、と吐息のような、先をうながすつぶやきのような声で彼はこたえて、ペンをインク瓶に落とす。
ペンの先が瓶の底にあたって、甲高い音が少しだけひびいた。
「年上のピアノ講師と、まっすぐに恋する生徒のおしゃれな恋愛のはなしで、ああいうの、素敵だなあっておもったんです」
「あこがれるかい?」
「どうだろ」
どうだろう、自分には縁のないものだと思っていた。
少し考えて、はソファにごろりと横になった。安物のソファはクッションの部分が少なく、すぐ板に触れるのでごつごつしている。
「わかんない、かな。だっていろいろわたしとはかけ離れてるもの」
ほんとうはあこがれているのかもしれない。けれども、あきらめてしまっているんだろうなあ。自分のきもちなのに、どこかつかみ損ねている。
もやもやしていた。気まぐれにまどの外を見ると、どこまでいっても地面と空の色が重なり合っていて、境目を見つけられなかった。
このまま不貞寝してしまおうかと思って、まぶたをとじた。うでで光をさえぎると、いつの間にかうとうとと眠気を催している。
暖炉の薪が嵐のように燃える音のなかに、ふむ、そうか、という男の声を聞いたような気がする。
窓の外を見たら真っ白にちかい灰色だった。いつもと変わらない。
小屋のなかを探すと、外套を身にまとった男が戸口に手をかけているところだった。こちらに気づいて、ふっと微笑む。
「ああ、起きたようだね」
「やだ、ごめんなさい! わ、わたしあのまま寝ちゃったんだ」
上体を勢いよく起こし、硬直する。胃からこみ上げてきた何かに気分が悪くなって前かがみになる。勢いをつけすぎたみたいだ。
気持ちが悪くて顔を上げることができないけれど、くつくつとのどを鳴らして彼が笑っているのが聞こえる。
大人っぽく背伸びしようとしても、いつもぼろが出てうまくいかない。かといって子どものように無邪気なのは、彼女のめざしているものとはちがう。
はやく落ち着いた大人になりたい微妙な年齢の彼女に、大人の男の余裕のある笑いはせつないくらいにこたえた。
だからわたしとは色々かけはなれているのよ。泣きそうな表情で彼女は彼女自身を呪った。
「わたし、もう帰りますね」
「暗くなるまえにそうしたほうがいい」
じきに日は落ちる。うなずいて、男は答えた。
は暖炉のそばにかけてあったコートを身につけて、男のよこに立った。
「あ、そういえば」
思い出した、と彼女の顔には書いてあった。ロイが健常な瞳で、器用に彼女のはにかんだ顔を映す。
「きのう読んだ本のピアノ講師、ロイさんに似てましたよ」
「どんなところが?」
「ええと、なんか笑ったときに伏目がちになるっていうか、さみしそうってうか、そんなところが」
ちょうどロイがドアを開けたところだった。を先に出そうと促すときに彼は振り返ったが、おどろいたような顔をしていた。
「君がそう言うなら、そうなのだろうね」
言って、笑った。まつげの影が、その頬にのびる。思わず、ずるいなあと彼女の視線はその長い影にくぎづけになった。