ゆかりをはむ、








早足で歩くのが彼のくせだ。気を抜くと、その背が見えなくなってしまうくらい遠くへ行ってしまう。




「ねえ、気にすることないよ」
「知らぬ!」





わたしは立ち止まってじっくり話したいのに。彼の背を追うわたしの瞳が、じわりと、春に雨が降るときの空気のようにゆっくりと、でも確実に、うるんでいくのがわかった。まばたきをして、それをごまかす。もっとも、彼はこちらを向こうとしないから関係ないのかもしれないけれど。








彼の性格は、お世辞にもいいとは言えなかったけれど、仕事はよくできるやつだった。誰もが舌を巻いて、性格の悪さもそこで補っているような感じを受けた。

彼自身もそれを知っていた。だからいつも完璧に仕事をこなしていた。




曹魏が誇る大軍の呉へ向けた遠征が近く、最近は文武の官すべてがあわただしく奔走していた。それは、一介の文官であるわたしも軍の中枢にいる彼も例外ではなく、毎日に神経をすり減らされていた。忙しさで目が回るというのは単なる比喩表現じゃないということを、身をもって知った。


つまらない間違いも、日を追うごとに増えていく、そんなある日のことだった。




珍しいことに、彼が失態を犯した。話を聞いていると、彼だけが悪いようではなかった。ただ、彼やわたしの上司にあたる人物が、執拗に彼ばかり責めるのだ。いい機会だと言わんばかりに、関係のないようなことまで口を出し始め、彼はそれを正面から受け止めていた。もともと、敵を作りやすい彼だった。彼はうつむいて唇を噛みながら、不条理な暴力にただひたすら耐えていた。わたしは、見ていて悲しくなった。








彼がその上司から開放されたのは、日がとっぷり沈んでからのことだった。恭しく礼をし、失礼を詫びてから、退室した。早足で歩くのがくせな彼の足音の間隔がいつもよりも短いことに気がついて、わたしはあわててあとを追った。










「なんていうか、あれはあんただけが悪いわけじゃないっていうか」
「・・・・・・」
「落ち込むこと、ないよ」



どうやったら彼の逆鱗に触れないだろうか、そればかりに気をつけていたのに、思わずそのデリケートな部分に触れてしまったみたいだ。




「落ち込んでなどおらぬ」



怒っているような、消えてしまうような、そんな声だった。強いような、弱いような。








そんなばればれのうそなんて、つかないで。もっとわたしに甘えていいよ。浮かんでは、消えていく。







「ねえ、」

返事はない。それに対して腹は立つけど、それ以上に悲しくなってくる。分かち合いたい。彼のすべてを受け止めて、彼の負担を少なくしてあげたい。




「司馬懿」


名を呼ぶと、弾かれたようにこちらを向いた。彼は口を開きかけたが、何も言わずに唇だけが動いた。その動きを読み取ろうとしても、彼が何を言おうとしていたか、よくわからなかった。


だけど、わかる。彼が何を望んでいるのか。とりあえず、わたしたちはこのまま早足でどこか人気のない空き部屋や、どちらかの自室をめざすだろう。着いたら獣になって噛み付くかのように唇をあわせるのだ。彼の弱みに付け込むようでなんだか後ろめたい気持ちではあったが、わたしは彼とこうなることをどこか望んでいた。