柔らかな牙 ;; ふたりは宮中の回廊で対面していた。 彼の話す声、笑う声、視線の運び方、さりげないしぐさなど、それらはすべて司馬懿の心をあたためてくれた。うすい絹の織物を幾重にも巻きつけているかのように、重さのともなわない、空気のような自然なあたたかさに包まれる。 こういう他愛のないはなしというのは、司馬懿の苦手とするところであったが、張遼とはなしているときはそれほど苦ではなかった。普段ならば、適当な話題を見つけることは至難の業、突拍子もない相槌で相手が困惑することも多々ある。他人とそれほど親密な関係を築きたい訳でもなかったので、司馬懿もとくになにをしたわけでもなかった。ゆえに、彼の話し下手は改善されることもなく今日までやってきたのだ。 その常識の壁を、張遼はいともたやすく打ち壊していった。 「以前から思っていたのですが、司馬懿どのの『馬鹿めが』っていうの、かわいいですな」 「な!」 実際に、いちばん驚いていたのは司馬懿自身だった。自分がこんなにも他人と会話のキャッチボールができるなどと、ましてや、もっとこの男相手に話したいことがあるのだと、気づいたときにはいままで信じていた自分像が明確に崩れていくことを心のどこかで感じていた。石造が長い年月を経て風化し、砂になる様を己に例えてみたりした。意固地な己が、もろいものへと変化していく。張遼によって、己が変えられていく。 「そうやって赤面しながら言葉をさがしているのも、かわいいと思いますぞ」 「私をからかって楽しんでおられるのか?」 「いいえ、思ったことを口にしているだけです」 言って笑う彼の表情は、いつもと変わらない笑顔でその裏にどんな気持ちが隠されているのかなんていうのは司馬懿には知ることはできなかった。しいて言うなら、疑っている。本心ではなく、冗談ではないのかと。そもそも、かわいいと言われてどういう反応をしていいかもわからない。怒るべき、なのだろうか。 張遼をじっと見続けていると、視線に気がついたのか意味ありげに笑って見せたのでなぜだか胸騒ぎがした。子供じみたしぐさにどきりとさせられたのが半分で、悪い予感が半分。 「まあ、立ち話もなんですしな。どうです、中に入られますか」 「ええと」 「ゆっくり語り合いましょうか、朝まで」 「は?」 「おや、伝わらなかったですかな。互いのことをより深く知り合おうと言ったのです、床で」 「ば、馬鹿めが!」 口にしてからはっとして、目を見開いた。おそるおそるといった風に張遼を見ると、やはり笑っている。それはまるで、悪いたくらみが成功した商人のように。どうしてこれほどまでに人心を惑わすことに長けているのだろうか。 「ほら、かわいいです」 張遼にとって他人をからかうことは、呼吸のようになくてはならないものなのかと、こめかみのあたりがぴりりと痛んだ。そうして、毒のように、あるいは獣に噛まれたかのように、確実に己の体を蝕んでいく恋情を司馬懿は自覚せざるを得なかった。 |