お気に召すまま ;; 雨にぬれたベルケンドは、洒落た小説にでも出てきそうな甘さと気だるさがある。頬にまつげの影を落としながら、落ち着いた雰囲気の女性がひっそりと読む本のなかの世界に入り込んだ気持ちだった。 茶色い煉瓦づくりの建物を背景に雨宿りし、足下には飼い主のわからない迷い猫。そんな絵柄のポストカードがあったな、とアッシュは思った。そっと白い子猫を抱き上げると、うれしそうに体をこすりつけてきた。なめらかな毛が、雨に濡れて重くなっている。このままではこの小さな猫が風邪をひくんじゃないかと不安に思って、少し力を込めて猫を抱いた。できるだけ体温をわけられたらいい。頭をなでると、気持ちよさそうにして猫はすっと目を細めた。それを見たら、なぜだか自分のほうがあたたかくなった。 そのまましばらく軒下で猫といっしょに雨がやむのを待っていた。行かなければならないところがあったが、今日のところはこの街にとどまることにした。どこか安い宿をとって、厨房を借りてミルクをあたため、猫といっしょに飲むことにしよう。教団服をあつく重ねている自分でさえ寒いこの雨の中、子猫はもっと寒い思いをしているだろう。 ゆっくりと近づいてくる足音と、水たまりの上に断続的に並ぶ波紋に気がついて、弾かれたように顔を上げると、そこにはガイが立っていた。まずいと思ってアッシュはすばやく立ち上がり身を翻したが、「ああ待て」と後ろのガイが言った。 誰が待つかと小さくつぶやき、胸の高さで猫を抱いた。振り返るつもりはなかったが、「追わないから」と言ったガイの声が、複雑な思いを含みすぎて鉛のようにやけに重たく水たまりに沈んで聞こえたので、思わずそちらを向いてしまった。すると、雨の中でガイが両手を頭の横に掲げて無抵抗のポーズをしていた。おそらく彼のであろう傘が、足元に転がっている。 「・・・濡れるぞ」 「ああ、だから拾ってもいいか。俺はお前を追わない、だから逃げる必要もない。そうだろ」 「わかった。わかったから、早く拾え。風邪をひきたいのなら話は別だが」 だんだんとアッシュの声に苛立たしさが含まれていった。アッシュ自身は気づいていないが、彼はガイが雨に打たれて寒い思いをしているのがいやだったのだ。無意識のうちにガイの体を慮ってしまうようなちいさな恋のつぼみが、彼の中で密かに育っていた。 体内で大変革が起きているアッシュをよそに、そんな趣味はないさ、と笑ってガイはこうもりみたいな色と形をした傘をさした。それから、まるでそれが何もおかしくないんだというように自然な動作で、アッシュと猫もその傘の下に入れた。驚いて目を丸くしたアッシュの視線が、まっすぐガイの瞳を射抜いている。 「なんのつもりだ」 顔の筋肉がぐっと伸縮し、アッシュの低い声は疑念を前面に押し出していた。 「送ってくさ」 いつもならば間髪いれずに口から悪態が、マシンガンさながらの勢いと破壊力をもって飛び出すはずだった。何を馬鹿な、と思ったがアッシュは二の句が告げなかった。かわりにのどを鳴らして黙り込むはめになった。 声を失って猫とふたり、ただじっとガイを見つめていた。ガイの声が、かわいたスポンジのようなこころにやさしく染み入って、冷静さを奪っていく。本当は、うれしかった。不器用すぎて、伝える方法がわからなくて、雨のなかに立ち尽くす。 「じゃあ行くか」 沈黙を肯定と受け取って、ガイが先をうながした。ひょっとしたらガイは、不器用な自分の気持ちをくんでくれたのかもしれない。アッシュはたまらなくなって瞳を細めた。あたたかくて浅い海のいろをしている彼の目を覗き込んでいると、やさしさに溺れてしまいそうになった。 「宿の場所は?」 「そこの角を、左に」 腕のなかの猫が、彼に好意をよせている。この子猫の里親探しに、ガイが協力してくれないだろうか。きっと自分ひとりでやるよりも、彼といっしょのほうが成功しやすいに決まっている。自分にはない要素が、彼にはたくさんある。 「お前の宿はどこなんだ」 「俺はいま着いたばかりだから、これからだよ」 空いてるところがあればいいがな、と視線を合わせないでガイはこぼした。猫のこともあるし、と理由をつけてアッシュは己を鼓舞する。ああ、激しい動悸がする。たった一言じゃないか。 「俺の部屋でよければ、半分空いている」 あとは、あなたのお気に召すまま。 |