ロミオの憂鬱 ;;




「え、ですか。うっとうしいですよ、はっきり言ってしまえば」
「おい陸遜、お前まじで言ってんのか」


私は冗談は嫌いです、と薄い壁を通して聞こえてきたのは明日の孫呉を担う若き軍師である陸遜どのの声。その相手は、甘寧将軍のようだ。

え、じゃあってだれ。あれ、わたし? そういえば、わたしの名前もだ。
でも彼がわたしごときの名前をいちいち把握しているわけない。きっとほかのさんなのだろう。



「このあいだ、花瓶を落として割ってたんです」
「そりゃ、しゃーねーだろ」
「その前は、茶を運んでいるときに転んで床、および机に置いてあった書類をだめにされました」
「それでも、ちゃんと書き直して提出したんだろ」

「気を利かせたつもりなのか、机を勝手に整理してくれたおかげで、私の気に入ってたすす竹の筆がいまだにどこかへ消えたままです」
「あいつもよかれと思ってやってるわけだし」




甘寧将軍のフォローの声が、しぼみそうになるわたしの心を膨らませてくれてる。がんばれ将軍、負けるな。そしてやっぱりこの場合のは、間違いなくわたしのことだ。悲しいくらいに身に覚えのあるはなしばかり彼の口からつむがれる。


陸遜どのの辛辣な言葉は、お経のようにえんえんと続く。




「まあ極めつけは、わざわざ営舎に来てまで、あなたと楽しそうにはなしているところですかね。へらへら笑ってるひまがあったら、きちんと仕事してほしいわけですよ」



全身から、力が抜けた。


萎えた腕から大量の竹簡が雪崩のように床にこぼれた。ずいぶん遠くまで転がったものもある。拾わなくちゃ、とは思ったが一刻も早くこの場から逃げたかった。

けっきょく拾わずに、は自分のもてる最大の力で走った。女官衣の長いすそが足に絡みついたが、それでも必死に走った。この場を離れれば、陸遜から遠ざかれば、胸の苦しさがすこしは和らぐんじゃないかと思った。


もちろん、そんなことはないことも、わかっていた。






大きな足音がだんだんと小さくなっていき、やがて足音は聞こえなくなった。ばたばたと大足で、まるで逃げるような足音だったと思ったら、落ち着いてなどいられなかった。ここでじっとしていると、自分のなかの不安に飲まれてしまう。泣き出したいほどに、取り乱してしまいそうだった。


追わなくていいのか、とにやにや笑って甘寧がたずねてきた。陸遜は舌打ちをして、本当は頭をかき乱したい衝動をぐっとこらえる。



「おかしいと思ったんですよ、急にのはなしをはじめるなんて」
「いまごろ泣いてんぞ、あいつ。女を泣かすなんて最低だな」
「それは、」


陸遜は反論しようとしたが、確かに最低だったので口をつぐんだ。いることを知らなかったとか、あのはなしにはまだつづきがあったとか、そういう言い訳は、ショックで頭の中のブラックホールに飲み込まれた。

泣かせてしまった、あの愛らしい少女を。それが自分の嫉妬心からくる、つまらない意地のせいだということが、陸遜の気持ちを暗くした。


「ちゃんとはなして、誤解を解いてこいよ」
「いまさら私のはなしなんて聞いてくれますかね」
「なんだよ、弱気だな。いつもそれくらい謙虚だったらいいのになあ」


この期に及んでいつもの調子を崩さない甘寧をきつくにらみつけたが、実際たすかっていた。こうやって強がってでもいないと、いまにも崩れてしまいそうだった。こういう細やかな気遣いができる男だ、甘寧は。つねに余裕のある彼が恨めしくもあり、うらやましかった。




覚悟を決めて、一歩を踏み出す。足元は床のはずなのに、なせだか沼に一歩踏み出してしまったかのように錯覚した。足にまとわりつくものの正体は、憂鬱なのかもしれない。


「まあ、がんばるこった。言っちまえばいい、私は、そういう小さなミスの1つ1つをきちんと把握しているくらい、のことばっか見てるーってな」
「あー、もう」



他人の口から聞かされると、なんだか気恥ずかしくて反応に困ってしまい、無理矢理に顔をしかめさせた。くやしいほどすべて、甘寧の言うとおりだった。