カメレオンラブ ;;




自分には詩才がないから、と司馬懿どのは申された。



わたしは曹操さまのご子息に詩を教える役割を与えられている。司馬懿どのは、それ以外を教える役割を与えられている。それ以外の、すべてを。

軍師は、何にでも通じていないとだめらしい。古今の兵法も政治も星の動きも経済も産業も、把握できるような知識を求められるのが軍師で、それらをすべて把握できるような男がここにいる司馬懿どのなのだ。



「だからって、まるで詩を詠まれないわけではないのでしょう」
「いや、まったく詠まぬ」






やわらかい午後の日を浴びながら、司馬懿は難しそうに顔をしかめた。



「それで、どうして突然習おうと思ったのですか」
「まあ・・・、突然というわけではないがな」
「そうなのですか。それならば、もっと早くに言ってくださればよかったのに」




喉を鳴らして司馬懿はお茶を飲み干した。空になった椀が、卓に乗せられる。飲むペースが早いんだなあ、とは感心してそれを見ていた。その視線が彼の視線と、卓の上で交差する。


「おかわり、いります?」
「うむ」



見つめ合う沈黙に耐えられなかったので、は思わず口を開いた。司馬懿はさも当然だと言わんばかりの態度で椀をこちらへと差し出す。湯気が運ぶ心地よい茶の香りに、彼女は思わず目を細めた。





笑わないでほしい、と必死な形相で彼はいちばんはじめに言った。笑いませんよ、とはまじめな顔で答えた。嘘でも辞令でもないほんとうのきもちだったが、司馬懿は納得していない様子だった。

信じてくれないのかと寂しく思ったが、それでも彼が筆をとったので書き終えるまで彼女は一言も発せずに待っていた。



さらさらと、あっという間に書き終えてしまった司馬懿だったが、できあがったものをなかなか見せようとはしなかった。ぶっきらぼうにの前にそれを差し出すと、亜音速で顔をそらした。


ただじっと、何も言わなずにできあがったものを見続けているに、痺れを切らした様子で司馬懿が問う。




「自分でもおかしい、と思う。だから、変だったらはっきりそう言ってくれてかまわぬ」
「そんなことないですよ」






彼の流麗な字が並ぶ竹を卓に置いて、は司馬懿をまっすぐに見た。そらされた彼の視線がこちらにもどされる。ほほえみでそれを受け止めた。すると、彼が一瞬ひるんだように表情を変えたが、気づかずにはつづける。





「司馬懿どのはもっと技巧的な詩を詠まれるのかと思っていたのですけど、これは素朴で、あなたの気持ちが飾らずに述べられているみたいで」


素敵ですと言って、目を伏せては微笑んだ。
伏せたまぶたの向こうでは、司馬懿がまばたきも呼吸さえもできずに、硬直していた。開かれっぱなしの瞳がとらえる世界は、今までにないほどきらきらと発光していた。


夢から現実にもどるようにゆっくりと、彼は感覚を取り戻しながらなんとか口を開く。




「・・・別に、詩を習いたかったわけではないのだ」
「では、なぜ」


問いかけながら、無意識のうちには小首を傾げていた。うらめしそうに司馬懿がそれを見つめる。なぜそうされているのかほんとうにわからなくて、彼女の首はさらに深く沈んでいく。





無色透明な恋だった。

他人に気づかれることをおそれて、いつの間にか気持ちを隠すようになっていた。



他人に気づかれたくなくて必死にこのきもちを隠してきた。隠しすぎて、気づいてほしい相手にさえもそれが伝わっていないことは計算外だった。ついでにいうと、その相手の鈍さも計算外だった。手ごわすぎる。


「ただ、そなたに、」




これが彼の精いっぱいだった。