07 見破れなかった嘘 戦後の処理がたまっていたので、しばらく職務室ですごす日がつづいた。 日が傾くにつれて壁際からじりじりと寒さが忍び寄ってくる。部屋から日中のぬくもりがうすれていく。つめたい部屋に沈みながら張遼は黙々と作業をつづけた。事務の仕事とも今夜限りでおさらばだ。 遠くから軽鎧の打ちつける音が響いている。 「将軍、おつかれさまです」 「なにかあったのか? 調練はすべてお前に任せているはずだ」 「はい、ご報告に」 「報告はいらぬといちばん最初に言ったと思うが」 は入り口で立ち止まり、曖昧にうなずいた。口でそうは言っても歓迎していないわけではない。入室の意思を見せないに最後にはこちらが折れてしまい、「とりあえず入れ」と言って彼女を迎えた。 夕方に調練が終わってから、彼女は月が真上に昇るいままで鎧の紐を解かずにそのままの姿でいたらしい。土煙のにおいを髪や鎧につけたまま、彼女は室内をくるくると見回す。 「なにか手伝えることは、ありますか」 「ないな」 「・・・すいません。わたしが字を読み書きできたらよかったんですけど」 声色だけで彼女の落胆している様子が伝わってきたため、張遼は顔を上げようとはせず手元の竹簡にばかり視線を落としていた。けれども見つめるばかりで筆が進むわけではなく、思考は純粋な信頼をよせるこの部下にとらわれていた。 「そのかわりお前には軍のことを取り仕切ってもらっている。字が読めなくとも張遼軍では関係ない」 農民の出のは文字を読むことも書くこともできなくて、それを苦く思っているようだった。しかし彼女には副将まで登りつめるほどの武才がある。字が読めないことなど些事だろう。 うれしそうには瞳を伏せた。今度はちゃんと顔を上げて確認したので確実だ。 「じゃあ、お茶を持ってきます」 くるりと踵を返し廊下をうれしそうに駆けていくのはいいが、彼女のつけた鎧がかちゃかちゃ打ち鳴らしていて、ゆっくりと朝を待つ何の変哲のない日常と、戦場を駆けるのが本分の自分たちがその日常とは相容れないのだなあと張遼はが戻ってくるまで待った。春を待ち土のなかでせこせこ働くありのように、せこせこ筆を動かした。 遠くから聞こえてくれる足音は、できるだけ穏やかに歩くよう配慮していることがわかった。ああ、茶か。 「将軍、ごま団子はお好きですか」 彼女がやってくると、部屋のなかは揚げたてのごま団子の香りと香りのよい茶の香りで鮮やかに彩られた。 「こんな時間に点心まで作ったのか」 「あ、これはたまたま通りがかった女官の方々が将軍のためと言ったらぜひ手伝わせてくれと」 「そうか」 「おかげでひとりでやるより随分早くできました。やはり将軍の人気はすごいですね」 「・・・も作ったのか」 「はい。ところで将軍、茉莉花茶なんですけど大丈夫でしたか? 好みの分かれる味なんですけど飲むと落ち着くんだそうです。なんて、女官の方々の受け売りなんですけどね。将軍、聞いてますか?」 「ああ、聞いている」 持ってきた盆を職務机の上に置いて、皿や茶碗を慣れた手つきで並べていく。部下だからとおもいを断ち切ろうとしたところに不意打ちもいいところだ。ただでさえ、数日ぶりに会えたおかげでいろいろと含むところもあるというのに。 「お仕事、だいぶ進まれたんですね」 「そうか?」 とゆっくりとすごしたかったからなのだが、指摘されたわけでもないのに気恥ずかしくて居心地が悪かった。気持ちを隠すことは得意だったので、いつものようにと努めて口を開く。 「明日からはまた軍に戻れそうだ」 「よかったです。やっぱり、将軍がいないと」 軍がしまらない、という意味では言っているのだろうがどうして肝心なところで言葉が足りないんだろう、この娘は。 用意された茶も菓子も張遼の分しかなく、それに気がついた張遼はごま団子の山をの方へ差し出した。 「食べるか」 「ありがとうございます」 うまそうに食べるのだなあ、と珍しく素の部分を見せるをじっくりと観察していた。あまり自分相手ではくつろいだ様子を見せようとしないので、歳相応と感じる場面は少なかった。 「甘いものがすきなのか」 「はい、そうなんです」 「では杏仁豆腐は?」 「食べたことありません」 「じゃあ今度、杏仁豆腐のうまい店に連れて行ってやろう」 正直に言うと、杏仁豆腐のうまい店なんて知らなかった。勢いで嘘をついたが、彼女を誘える口実になるとおもったから構わなかった。 「・・・はい」 彼女がすこし身構えているようだったので、早まったかと自分の選択を振り返った。いや、部下を誘って飲みに行くようなものだろう。付き合いの一種じゃないか。ガードが固いにもほとがある。 しかし、煮えきれないながらも返事をもらえたのだから、約束を取り付けることに成功した。 今度会うまでに杏仁豆腐のうまい店の情報を仕入れておこう。仕入先はおそらく以外の女性になるのだろうが、そんな自分がすこしむなしかった。 そんなことがあった翌日、張遼は彼女の宿舎に向けて愛馬を飛ばしていた。頬をなでる風が冬の色を濃くしている。日中だというのに、日が差していないせいか体中を血が駆け巡っていないのかもしれない。あたたまることのないわが身を愛馬にすべて預けた。 が消えたらしい。同じ宿舎の者によると、消えたのは彼女の武器と防具、彼女の馬とそして彼女自身らしい。 つらい現実が待っているだろうその宿舎には、できることなら行きたくはない。しかし自分のまたがっている馬はどこに向かえばいいのかわかっているかのように進んでゆく。ひとりの男として受け入れるならつらすぎる現実。魏将、張文遠が受け止めるのは部下がひとり消えたという事実。将としての仕事をするために、その宿舎に向かっているのだ。 賢い馬の体をそっとなでやって、冬のくもり空の向こうにある宿舎をめざした。 |