08 感情凍結




安い感傷にひたって日常生活に支障をきたすような繊細な神経は捨ててきたのだ、と張遼は思う。誇りというほど尊い感情ではない。もっと利己的な感情。自分が惨めなことに耐えられないなら、その対象を蔑むことで自分の立場が優位であると思い込む。擦り切れながら身に着けてきた彼なりの処世術だった。



すべてを凍らせ停滞させる冬がすぎて、夏を迎えようとするときに蜀との戦の話が張遼の元へ持ち込まれた。蜀としても本格的に魏に対して侵攻を企てているわけではなく、国境付近のいさかいが原因らしい。張遼のほかには現地の武官が数人指揮を執るようで、兵の数もそう多くはない。相手も同様だろう。長引かせると互いのためにならないことは明白で、何かしらの決着をつけるため張遼が投入された。完全な勝利がほしいのではない。戦況を見極め、それに応じて幕を下ろすことが求められている。







ぶわりと全身をなでる風が、夏のにおいを運ぶ。濃い緑のにおいが蜀から流れ込む。
国境線は目視できないが、きっちりとそこに線が引かれているかのようにして両軍向かい合っている。

どうやら、事前に受けていた報告よりも敵騎兵の数が多いようだ。最前列に並ぶ彼らは出撃の合図を待っている。勝ちを急いているのならば小物だ。


まずは2騎が突出した。自分だったらああはしない。
悠然と戦団の後ろで張遼は眺めていた。自分が出るまでもないだろう。戦略的な意味もないような仕事に借り出されたことに今さらだが空しさが募る。名も聞かぬような将がいくら集まろうとも、自分の相手が務まるとは思えない。

こうして、すべてを見下すことはと出会う前の自分ならばよくあることだったのに。
思えば、彼女といっしょにいると自分は世界を斜めからではなく、正面から受け止めることができていたような気がする。









しかし、そうのん気なことを言っているわけにもいかなくなった。
先ほどまでは遠くからでよくわからなかったが、2騎はずば抜けて馬の扱いが巧みなのだ。後ろにいる者たちでは追いつこうにも、それができないほどに。


たった2騎だが、前線は被害が拡大している。たかが2騎にやられている、という事実に味方の士気はがたりと落ちている。
やがて敵の後方部隊も合流し、自軍がどんどん崩されてゆく。予想外の事態に、張遼の部隊にもどよめきが走る。



「うろたえるな」


強く叫ぶと目が覚めたようにまわりの兵たちが態度を改める。絶望をつぶやく声が消え、皆が張遼の言葉を待つ。



「注意すべきは、たった2騎だ。我らもそろそろ動くぞ。気を引き締めてゆけ」

いつもの様子に戻った兵たちが大きな声で返事をする。張遼も意識を切り替える。いつまでも、いなくなった部下のことを気にかけているわけにもいかない。例えそれがはちみつのように甘く絡みつくような記憶であっても、凍らせて2度と息を吹き返さないよう胸の奥にしまいこむのが上策だろう。





どっと大きな塊になって、張遼の隊が動く。悪くない動きだ。今日いる敵味方すべて合わせた部隊の中でもいちばん練度は高い。
負ける気がしないのは驕りではなく、事実を照らし合わせて出した結論だ。













「将軍、敵は馬超のようです!」


先に放っていた伝令が、取り乱して叫ぶ。

西涼の馬超が蜀に降ったというのは聞いていたが、まさかこんなところで相対するとは思ってなかった。
かつては10万の兵を率いて「錦馬超」の名をはせていた男が、三国のなかでも国力の乏しい蜀に転がり込み、局地のつまらない戦に出るなんて、それはつまらない話だ。

呂布の再来、とも呼ばれているようだが、流転し、今は昔の名がただむなしく、その男を飾り立てているのだろう。
馬超はもはや終わった男だ。西涼の土地のように不毛で、何も育まない。風化してしまい、いつしかその名も忘れ去られる。




「敗戦の将であろう。今の蜀に降ったところで満足な戦ができるものか」



戦は個人同士のものではない。馬超ひとりが強くてもどうにもならないこともある。
ここにいる者たちは皆精鋭だ。曹魏のなかでも騎馬の扱いに長けた者を選りすぐり、全軍を挙げての戦では先陣に配置される。

速さと勢いでもって、敵を撹乱する。



しかし、この日は皆その持ち味を活かせなかった。対峙した敵を見た瞬間、どの者も動きがにぶる。
その逡巡している間が隙となり、敵に好機を与えている。




馬超の強さ。





そして、もう1騎。



「・・・?」



見慣れたくすんだ色の外套、偃月刀。なぜ蜀にいる。










彼女は目を合わせたつもりはないだろう。ただ、張遼から見た彼女の瞳には、かつてあった燃える闘志のようなものは感じられなかった。すべてを無感動に映しているかのようで、氷のような印象を受けた。透明で冷たくて、それを通して何かを得るということはなく、ただ光を、目の前の光景を映しているような、おおよそ彼女には似つかわしくない印象だった。






「孟起!」

速さで通り抜ける。通り抜けた後には戦意のそがれた兵が呆然と立ち尽くしている。
圧倒的な強さ。そして、皆が信頼を寄せていた者の裏切り。

かつての副将の声が、馬超の名を呼ぶ。馬超も答えるようにして馬首をめぐらせる。
自軍が切り崩されていくのを目の当たりにしているのに、誰一人として身動きが取れなかった。