09 けれども手放すつもりはなく、 がどこかで幸せに暮らしていてくれたら。戦いとは無縁の日々を過ごしていてほしい、とあの冬の日に誰もいない部屋を見ながら思っていた。 しかし、その部屋の持ち主とともに馬と武器と防具が消えていた。それらから導き出されるのは、おそらく張遼軍でいたときと寸分変わらぬ生活を営んでいくとうことだった。 せめて、自分の敵として立ちはだかることがないように。 彼女の幸せを願いつつも、再びまみえることを恐れていた。自分は戦えるのか、と。 先の戦からあまり間をおかず、再び蜀との戦になった。 事前に開かれた軍議によると、馬超軍も参加しているという。無論、もいることだろう。 敵味方が入れ替わることは、こんな世の中では珍しくもなかった。でなければこんなに心を乱されることもなかっただろう。 張遼は自分の弱さを自覚したが、受け入れることは難しかった。 敵の2騎が突撃してきたが、前回の戦と違い後続はない。遠目からも目に鮮やかな鎧は、錦の名を持つ馬超だ。隣ではためく枯れた草の色をした外套は。 陣形を整え、万全の態勢で待ち構える。 すると目の前で片方がくるりと向きを変え、もう片方を襲う。 先に襲い掛かったのはだ。馬超もそれを受け、互いに鍔迫り合い、向き合っている。 「!」 思わず叫んでいた。冷静で紳士的と称される男は、ここにはいない。元々いない。それは、取り繕っている姿だからだ。 ここにいるのは、プライドも立場も忘れて取り乱している張遼という名のひとりの男だ。そう、どこかで冷静に考えていた。後で思い返して恥ずかしいと感じるかもしれない。しかし、思い返したときにが生きていなければ意味がない。自分の隣にいてくれないというのなら、張遼の世界を構築する大部分を失うことになる。武人としていくらが優れていても、馬超の強さはまた別格だ。 張遼の声に反応して、が頷いた。 「・・・、裏切るのか?」 西涼の空気に湿気がほとんど含まれていないように、馬超の声にもおおよそ感情と呼べるものはほとんど感じ取れなかった。 特徴のあるかすれた声が、静かにに問いかける。 「孟起。ここは引いてほしい」 「そうはいかぬ身だと、お前も知っているだろ」 「・・・孟起」 対照的にの声が悲しみでにじむ。 目の前で繰り広げられる一騎打ちに、張遼軍の一同は唖然としていた。 そこへ、曹操直轄の隠密機動部隊のひとりが訪れ、張遼に書状を渡した。 「殿からです。彼女の身の上について記されております」 受け取った書状を読んで、張遼は固まる。 彼女は曹操の命で蜀軍へ仕込まれた埋伏の毒である、と。 「皆の者、は友軍だ! 殿の密命により敵軍にて埋伏の毒として活動をしていた。これより救援に向かう!」 皆、のことを信じていたのだろう。返ってくる声にこめられた思いが伝わってくる。 戦うことに嫌気が差したのいうのなら、どこかで幸せに暮らしていてほしいと願った。 敵として対面したときと戦えるかどうか、不安だった。 けれども、再び会えることがあるのなら、その好機を逃す気はなかった。明確な別れの言葉を聞いていない。聞いたところでそれを受け入れられない狭い心しか持ち合わせていない。駄々をこねる子どものようだ。 決して手放したくない。 |