動き出せない物語





他人の気持ちがわからない。どんなに知ろうとしても、俺の神経の限界はこの皮膚の下までしかない。皮膚の外側に広がっている世界の姿を目で見て構築していくものの、言葉で表されないものについてはあくまで俺の想像の域を出ない。


は俺からすると臆病に見える。そして気難しい動物のようにも見える。
以前はか弱いのだと思っていた。頭の位置が俺よりずっと下にある・・・と感じていたからなのだが、どうやら彼女の家では平均的な高さらしい。
よく考えてみたら俺のまわりには騒々しい奴が多いのだから、彼女の喋り方が特別大人しいというわけではない。





紙コップを片手にくつろいでいるところに、俺とイタリアが遭遇したことがある。
を見つけるなり、イタリアがふわりと彼女の方へ近づいていった。がつがつとむやみに欲張るというよりは、ゆるい風に乗って彼女のところまで運ばれていったような印象だ。イタリアの女性に対する行動は軽いけれども、相手にとってこれ以上踏み込まれたら鬱陶しいというところの一歩手前の絶妙なところで踏みとどまっていると思う。


ちゃんっ、なに飲んでるの〜?」

紙コップから立ち上る甘い香りの湯気の向こうで、彼女がやんわりと口を開く。


「こんにちは、イタリアさん、ドイツさん。そしてこれは、ココアです」



イタリアにコップの中身が見えるように傾ける。そして、イタリアに気づかれないようにすっと半身を引いた。
イタリアが踏み込んだというわけではなく、ここまでが彼女の境界線なのだろうと思った。他人とのふれあいが苦手なわけではなさそうだし、現に今だってふたりで楽しそうに会話をしている。
彼女は他人との距離に対して怯えているように見える。









実際にが何を考えているかなんて、俺にはわからない。
自分の脳内で区切りをつけたところで、意識を手元のチェックリストへと戻す。帰りがいちばん遅い者が事務所の戸締りをしていくことがここのルールだ。ドアや窓の鍵、分電盤を1つずつ確認し、チェックリストへと記入していく。


「ドイツさん。お疲れ様です」


バタンと大仰な音を立ててが現れた。彼女もその音に驚いたようで、おずおずとこちらの様子を窺っている。


「あー、大丈夫だ。そこのドアは立て付けが悪くて元々そんな様子だ」
「わたしが乱暴だとか、そういうことではないってことで、いいですよね!」

必死さがこめられている声に、思わずこちらの気が抜ける。吹き出すとまるでそれを咎めるかのような視線がつきささるので、急いで撤回する。立ち込める空気を咳払いで遠くへ飛ばす。
ペンを持ち直すと、彼女の意識もそちらへ向かう。


「戸締りチェックですか?」
「ああ」
「わたしもさっき電子回路試験室閉めてきたところで。ドイツさんもお帰りになりますよね? 門までご一緒してもいいですか」
「構わん」



調度いい高さのキャビネを机代わりに使っていた。俺の進捗状況を確かめるため、が隣から覗き込もうとする。俺にとっての調度いい高さは、彼女にしてみれば背伸びしてもなお高いくらいだ。腕組の形でキャビネに体を預け、乗り上げるようにぐっと体重をかける。
慣性の法則にしたがって勢いに乗った彼女の体が、俺の腕に遠慮なくぶつかる。触れている部分がじりじりと緊張でむずかゆい。

じきに何気ない動作で彼女の方から距離を取るのだろうと思っていた。彼女のテリトリーには誰も入れないものだと。それまで俺は動揺を気取られないようひたすらペンを走らせるつもりだったのだが、一向に離れていく気配はない。
そっと視線だけで彼女の様子を捉えると、手元のチェックリストを覗き込んでいるため、俯いて下がってきた前髪により表情は読み取れない。



読み取れない気持ちはあくまで俺の想像の域を出ないが、こうして彼女から近づいてくれるということは、他の奴らと違って特別なことに思えた。彼女は俺のことを憎からず思っているのではないか。
恐らく書き終わるまで俺たちはずっとこの体勢だろう。触れている肩先からじりじりと熱が駆け上がってきて、頬まで熱い。髪の隙間からのぞく彼女の白い頬も、耳も、ピンク色に染まっている。