私は私であることを放棄します 例えば、鍋をひっくり返しておたまで打ち付けるとする。すると、金属のたゆんだ音が間延びして響く。その鍋にたくさんの中身をつめてから同じようにおたまで打ち付けたら(この際ひっくり返しても中身はこぼれないものとして考えてほしい)、同じように響くことはないだろう。 僕の心も空っぽだ。だからこそ、の声が僕の心を震わす。 外へ面する側面のほとんどが窓になっているの部屋からは、横殴りの雨という表現が的確であると頷けるような情景が見て取れる。そんな部屋の中央に配置された天蓋つきのベッドに彼女は横たわっていた。のぞきこむと、は頬を紅潮させ、せわしなく胸を上下させていた。眉の間にしわを寄せ苦しそうにしている。部屋に充満する湿気が、ほんの少しの土の匂いを運ぶ。 庭の植物を守るために雨の中で作業をしていたという。なんて馬鹿な行いだろう。特に『夏になると大きな黄色い花を咲かせる植物』を一生懸命守っていたそうだ。後から駆けつけた使用人や庭師に植物たちのその後を託して微笑み意識を失ったという。ベッドに入る前にシャワーで汚れを流したのだろうが、爪の間に少しだけ泥が挟まっている。 の白い細い腕をとってその様子を観察していたら、きゅっと彼女の指先に力がこもった。 「ロシアさん・・・?」 切なげに瞳を細めて彼女がこちらを窺っている。熱で潤んでいるのか、ぼろぼろと涙がこぼれる。額に乗せられていたはずの濡れたタオルは、ぬるくなっていつの間にか額からずれ落ち、枕の上でだらしなく丸まっていた。 いつからだろう。彼女の涙を見ると、こんなにも不安になるようになったのは。 ぱっと手を離し、原因である彼女を見なくて済むように背中を向けた。強い雨の音、切ない呼吸の音、僕の名前を呼ぶの声。 「どうか、こちらを向いてください・・・」 ここが外だったら、路傍の石でも蹴りながらやりすごしていただろうが、生憎室内だったので手持ち不沙汰に立ち尽くしていた。本当なら彼女の額のタオルでも乗せなおしたらいいのだろうが。そもそも、立ち去ろうとしないのが我ながらおかしかった。 彼女が僕になにかを望むのは珍しいことだった。応えるように振り向いたのはただの気まぐれだ。欲しいのは僕と言わんばかりに、両手をこちらにめいっぱい伸ばしている。腕を1本差し出すと、慈しむように数回触られた後、手のひらを彼女の頬を包むように持っていかれる。燃えるように熱を持った頬だった。 勢いよく腕を引き戻し、彼女の方を見ずに僕は部屋を出た。背後から謝罪と泣き声が聞こえてきたがそのまま無視して使用人室へ向かった。彼らの名前なんて知らなかったから誰にともなく声をかけると、驚いたような顔をして一斉に呼びかけに応えた。僕が使用人室を訪れるのはこれが初めてだったからだけど、の部屋からだったらわざわざ内線を使うより出向いた方が早かったからそうした。の看病を言いつけ、僕は自室に向かった。 壊れやすいものみたいだ。そんな彼女にやさしくすることができない自分はいらない。そう思うけれど、彼女への態度を改めることは難しそうだ。空っぽの心が彼女の涙で満ちる頃には、僕への変化ももっと大きくなっているのだろうか。 他人のことのように考え、暖炉の火にあたりながら手のひらの熱を思い出していた。 |