3.素晴らしい世界に





自分の背丈ほどに伸びた草が風に流され軽い音を立てる。わたしの隣に立つギルベルトも草にほぼ埋もれてしまっている。それでも少しでも高く手を伸ばし、馬上の人物へ声をかけた。


「おーい!」

気がついたのだろう、馬首をめぐらしこちらへ向かってくる。柔らかな髪が風に遊んでいる。


「よお、バイルシュミット」
「ちゃんと馬に乗ってきてくれてありがとな、ヘーデルヴァーリ」
「別に。で、そっちは?」

覗き込む双眸が、出会った頃のギルベルトのようにわたしを探っている。夏草のように力強い緑色をした瞳だった。

「はじめまして、です。ギルベルトと一緒に暮らしてます」
「ああ、よろしく」


口の端を横にぐっと押し広げるようにしてその人は笑った。ギルベルトのふてぶてしさとは違う意味の強さを感じる笑みだった。




ギルベルトとファミリーネームで呼び合うのは、嫌味というか、心の距離を置きたいからだという。

「だから俺のことはヘーデルヴァーリで。で、きみのことはでいいかな」
「うん」


そうして馬から下りた彼もわたしやギルベルトとそう変わらない年齢に見えた。そして、ギルベルトと同じような存在なんだとふっと思った。

「それで、なんで馬なんだよ?」
「俺の知ってる限り、お前が一番扱いがうまいからな。に見せてやりたかったんだよ」
「ふうん」


まんざらでもなさそうにヘーデルヴァーリは頷く。そして愛馬の肩のあたりを手のひらで叩くと、答えてみせるかのように馬がぐっと伸びをしてみせた。手入れの行き届いた栗色の毛並みがつややかに太陽の光をはじく。しなやかな筋肉とすらりと伸びた4つの足は、大地を蹴ることに特化されているかのようだ。


「だから・・・」
「ああ、わかってる。、乗ってみるか?」
「え」


出合った時にヘーデルヴァーリを見て、見事な手綱捌きだと思った。ギルベルトをはじめ、騎士団のなかで騎乗できる人はたくさんいたけれど、ヘーデルヴァーリのそれはまるで違うように見えた。人馬一体とでもいうのか、彼を乗せていることに何の違和感も感じていないかのように愛馬は駆けていた。
ギルベルト、それからヘーデルヴァーリを交互に見てからわたしは首を縦に振った。ふたりの少年がふっと微笑んで準備をはじめる。

ギルベルトに背を押されるようにして、ヘーデルヴァーリの愛馬と対峙する。黒目がちなやさしそうな瞳がわたしを映すと、全身の毛を逆立ててそのまま固まってしまった。 ああ、やっぱりだめだったんだ。俯きそうになるわたしの背をギルベルトが支える。


「そのための俺だろ」

素早く騎乗し、馬上から差し出される手のひらをわたしは見つめていた。


「ほら」
「う、わ!」


ギルベルトに突き出され、ヘーデルヴァーリにつかまれる。草に遮られていた視界がぱっと開ける。太陽がいつもより近い。ぱかぱかと不揃いな足踏みをはじめると、振り落とされないように手綱をぎゅっと握ることしかできなくて不安にかられる。


「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

後ろから伸びた手がなだめるように馬首を数回撫でつける。馬に向けてなのか、わたしに向けられた言葉なのかは定かではないけれど、耳元で聞こえるヘーデルヴァーリのやさしい声に栗毛の馬は段々と落ち着きを取り戻していく。


「よし、もう大丈夫だ。、少し駆けるぞ」
「う、うん!」


期待と不安が入り混じって、思わず大きな声が出た。それを合図にゆっくりと駆け始める。後ろに引っ張られそうになったけれど、ヘーデルヴァーリの胸が背もたれ代わりにわたしを受け止める。
風を切る感覚は爽快だった。目が乾燥して何度も瞬きをする。向かい風の中で息をするのも難しい。でも、全部はじめての感覚だった。


「馬がさ、に興味をもって固まっちゃうんだよ。いや、馬に限ったことじゃないだろうけど、人と違って考えるのがそんなに得意なわけじゃないから、混乱しちゃうんだろうな」
「ふうん」

速度を落として、ヘーデルヴァーリがそっと口を開く。なるほどと思った。
確かに彼の言うとおり、今まで動物などに全くと言っていいほど懐かれなかった。わたしが人の形をしているだけで、本当は違うものだからそれを見抜かれているんだろう。人の場合は言葉を重ねることでごまかすこともできるが、動物となると先ほどのように固まるか、一目散に逃げられるかのどちらかだった。



「はじめは固まっちゃうかもしんねぇけど、時間をかけていけばちゃんと分かり合うことができる」
「うん、ありがとう、ヘーデルヴァーリ」
「なあ、この馬、とってもいい馬だぜ。子馬の時から俺が面倒見てたからな。にならくれてやってもいい」

それはさすがに申し訳ない。一目見ただけで他の馬とは違う、というのがわかるような馬だった。それに、小さい時から手塩にかけて育ててきたものを、そうやすやすと受け取れない。
なんとか振り向いてみせると、ぴんと突き立てた彼の人差し指に言葉を遮られる。


「礼だったらバイルシュミットの野郎にさせるさ。今日の記念だと思って受け取ってくれよ。そんで、なんか困ったことがあれば連絡してくれ。そしたら、俺はきみやこの馬に会いにまた来ることができる」
「あはは、そっか。それなら、ありがたくいただきます」
「そういうこった。よっし、じゃ、今から本気出すぜ」


にいっといたずらをするみたいにしてヘーデルヴァーリが喋った。慌ててわたしは正面へ向きを直す。




「ギルベルト、ギルベルト!」


今日、ひとつ夢がかなった。馬に乗ることができた。草の隙間からひらひらと手のひらがこちらに向けて振られている。同じように手を振り返したかったけれど、いま手綱を放すと振り落とされそうでできなかったから、代わりに大きな声で彼の名前を呼んだ。