はじまりのキス




グラスの形も、注がれているお酒の色もみんなそれぞれ違うものだった。それぞれの個性を表しているようで面白い。既にテーブルにはつまむものはなく、みんなお酒がまわって適当な暗さの中でもギラギラと鈍く発光しているかのようだった。
重たいガラスをのみで削ったような無骨な形のグラスに注がれた水と同じ無色透明な液体をちびちびとなめるように飲みながらテーブルに着くみんなをのぞいていた。先ほどから誰かしらが話し、すかさずつっこみ、つっこまれ、わたし以外の3人だけで話が進んでいた。そもそも、男の人が集まってする下世話な話題はわたしはいまいち苦手だったので、まるでテレビドラマでも見ているかのような客観的な立場で目の前の男達の会話をとらえていた。
お酒が入ると、フランスがいちばん豹変した。普段はふっと微笑むような落ち着いた彼だが、気分が高揚していると愛を説いてだらしなくと笑う。スペインはいつもより陽気になった。プロイセンは普段から理性のたがが外れているから、特にアルコールは関係ないようだった。
そんなわたしからするとあほにしか見えない3人だったが、会話の内容さえ聞こえなければ3人がそれぞれ上等な男性であることは間違いなかった。他のテーブルからはちらちらと熱のこもった視線が彼らに向けられている。
そんな彼らと一緒にいることでわたしのレベルも上がるような気がするのだけれど、傍からはわたし達はどんな風に見られているのだろう。そっとグラスを傾けると、硬質な甘みが口の中に広がる。胃まで落ちると、お腹や胸が満たされるような感覚。けれども、違う甘さが欲しい。砂糖のわかりやすい甘み。デザートが食べたかったので、そっとテーブルの上のメニューを探す。

「・・・、デザート食うか?」
「うん。食べたいな」

正面に座るスペインが会話から外れて、わたしに問いかける。遅れてフランスやプロイセンの注意もわたしに向けられた。スペインを見つめて正直に告げると、わたしの左隣に座るフランスが滑らかにメニューをこちらに差し出す。レストランのウェイターのようでもあったし、世界の恋人のようでもあった。とにかく慣れた動作だった。

「じゃあメニューをどうぞ」
「ありがとう、フランス」

冊子になっているメニューの終わりに近いページを開く。今日はいつもよりお腹がいっぱいだったので、ケーキみたいにお腹にたまるものは除外。シャーベットは、手元の飲み物と同じように後味のない甘みなのでできれば別のものを。チョコレートやクリームのように口の中をやわらかくいっぱいにしてくれるものがいい。

「バニラアイスにしようかな。みんなはなにか飲み物でも頼む?」

メニューを3人へ差し出すけれど特に見る必要もないようで、同じものを頼むようだった。ぱたりとそれを閉じて、脇にしまった。


オーダー後、テーブルの空気が死んでしまった一瞬、わたしは口を開いた。

「あの、キスってなんなんですかね」
「えー、なんなんー! 突然そんなこと言うてー!」
「ほんとほんと、お兄さんもびっくり」

嬉しそうに瞳を輝かせているだめな大人たちがこちらを見ている。今まで会話に参加していなかったわたしによる突然の持ち込み企画の滑り出しは上々といったところだった。わたしはこのままこの場のスターになりきれるだろうか。

「挨拶なんですか、愛の挨拶ですか」
「そうそう」
「まあ、んとこじゃ挨拶代わりにはせぇへんやろ」
「うん、そう。そうなの、愛の挨拶オンリー」
「まさかの口から「愛」なんて言葉が聞ける日が来るなんて思ってなかった。神様って本当にいるんだね。俺、毎日お祈りしててよかった」
「あっ、すいませーん。さっきのオーダー、ワインのボトルに変更でお願いしますー。ほらフランス、祝いの酒やで」
「店員さん、こっちの兄ちゃんのも濃いめのに変更でお願いしまーす。よし、とりあえず飲むか」

店員は嫌な顔ひとつせず伝票を書き直すとそのまま奥へ消えた。落ち着きをなくしてはしゃぐ彼らは、テーブルから身を乗り出したり、頬杖をついてこちらを向いていたりしながら絶え間なく何かしら喋っている。それで、と誰かから先を促されて、わたしは再び口を開いた。

「そう。さっきみんなの話を聞いてて思ったんだけど、わたしみんなに比べてもう絶対的に経験が少ないんだよね。ていうか皆無。でも、わたしぐらいの年齢でそれって珍しいじゃない」
「まあ人それぞれやと思うけど・・・。そういうの喜ぶやつも多いで」
「男は初めての相手になりたがるものだ、ってね。で、その先は?」
「わかんないんだよね。ねえ、唇と唇が触れるだけでしょ。目を閉じるタイミングっていつ。手ってどうしてたらいいの」
「うわあ・・・、何このかわいい生きもん・・・!」
「触れるだけじゃないかもしんないよ。で、手は? はどう思うの?」
「こう」

まっすぐに伸ばした腕を胴体にぴたりとつけて、「気をつけ」の体勢になってみせると、彼らは揺れながら笑う。わたしの一生懸命は箸にも棒にもかからなかったようだ。

「ね、この有様だよ。だから、みんなに教えてもらおうと思って。さっきまで目の前であんな話してたんだもん、みんなにとってのわたしって女じゃないってことでしょ? 奇跡が起きた時に恥をかかないためにも、どうかひとつ、よろしくお願いいたします」

深く頭をさげて、おでこでテーブルクロスの感触を味わう。顔を上げると、青い顔をした3人がわたしを見て、それから互いの顔を見やった。

「おい、誰やねん、さっきの話してたんわ。正直に挙手せえ、全力でしばいたるわ」
「本当に人間性を疑うよ。いいからプロイセン、手上げろよ」
「ふざけんなよ。誰ってわけでもねぇだろ。ていうか誰がはじめたかって言えばフランス、てめぇだったぜ」
「違う違う違う。俺はスペインの言葉をきっかけに・・・」
「はー!? 何言うてんの。そんなん言いがかりや。よっしゃ、みんな表出よか」
「めんどくせぇ。今さらどうにもなんねぇんだから、ちょっとは落ち着けよ」
「なんだとプロイセンこの野郎」
「なんやとプロイセンこの野郎」
「ただ喧嘩はすきだから参加するぜー!」

不穏な争いの空気が立ち込める。テーブルの上のお皿やグラスががたがたと揺れて、その音がわたしの不安を加速させる。珍しくちょっとだけまともな事を言ったプロイセンに感動したのもつかの間、彼はやっぱり理性のかけらも持ち合わせていないのか好きなことばかり口走っている。

「ねえやめてよ。わたしがあんなこと言ったのが悪かったのかな。ごめんね・・・」

悲しくなってふるえる唇を一文字に結んでこらえた。みんなも痛いような表情でこちらを見つめる。

「違うではなんも悪くない」
「そうだよ、これは俺らの問題だ。一時休戦。今はの問題を解決しよう」
「この空気でか?」

水溜りの氷を踏むみたいにしてプロイセンが言い放った。ぴしりと張り裂ける音を立てて踏み潰された氷みたいに、スペインもフランスも表情を崩す。対照的にプロイセンはいつもの引きつった形の笑みで2人を見ていた。そんなプロイセンをわたしはじいっと見つめる。視線に気づいたプロイセンも怪訝そうにこちらを見る。

「なんだよ」
「そういえば、さっき話してる時にプロイセンは何も喋ってなかったな、って」
「・・・いま言うなよ」
「うわー」
「あらら」

あからさまに嫌そうな顔をするプロイセン。形勢逆転とでもいうようにスペインとフランスがにやにやと彼を見つめる。

、プロイセン先生は知識が大変豊富だから彼にご教示願おう」
「プロイセン先生。どうか彼女のために一肌脱いだってください」

まるで「プロイセンを陥れる会」だ。つくづくこの3人は仲がいいと思った。男の友情は、いつまでも子供じみいて彼らの実年齢とのちぐはぐさにいつも馬鹿みたいだと思うけど、本当は羨ましかった。

「実際にやってみんのが一番手っ取り早いだろ」

低く吐き捨てられるプロイセンの言葉に驚きながらも、わたしの視線は彼に釘付けになった。スペインもフランスもあれ程たきつけていたくせに、彼が動き始めると何も言えないでいた。右隣にかけていたプロイセンが席を空けわたしの横に立つ。

ただ、向かい合っているだけなのに、彼の気持ちが流れ込んでくるような錯覚をしてしまいそうになる。好きだと言われたわけではない。ましてや、これは本気じゃないのだ。目の前の男の顔は本当に整っていて、段々と近づいてくるとどこを見ていいのかわからなくなって不安さをやり過ごすように思わず目を瞑った。いつの間にか後頭部に添えられた彼の手のひらがわたしを安心させつつも斜め上を向くように調整の役割も果たしていて、逃げることはできないんだなあと思った。嫌なわけではなくて、諦めたわけでもなくて、自分の意思以外の意思がわたしを支配しているこの状況こそが身を委ねるということなんだろうと思っていた。ふっと鼻先にかかる熱い吐息。

わたしの頭に添えられた手がそっと離れていく。

「そんな感じでいいんじゃねぇか」

そのまま彼は自席に戻ってグラスに少しだけ残っていたビールを飲み干すと、店員を呼び止め同じものをオーダーする。

「えー、なんで最後までせーへんの、プロイセーン」
「お兄さんもプロイセンにはがっかりしちゃったよ」

飲み物がなくなったプロイセンは少しだけ不満そうな顔をして、それよりさらに不満そうな顔の2人に言う。

「本当にしたらお前らにボコられるだろ」
「そんなことない、触れるだけのキスは挨拶と同じやもん。ちょっと顔の輪郭変わる程度で我慢しといたる」
「なになに、プロイセンくんは甲斐性なしだったのかなあ。左に同じ、ちょっと撫でるだけだよ」
「何だろうが今しちまったら酒の勢いみたいになってに失礼だろ」
「せやけどあっこまでしてよぉ我慢できたなあ。俺やったら無理やわ」
「あ、俺も無理。プロイセンってばすごいね」
「馬鹿言え。すっげーがんばったんだぞ」

そこで新しいビールが彼に渡され、一口飲んでから「そんな感じでもっと褒めろ!」といつもの調子で彼は言った。スペインとフランスがぱちぱちと適当な拍手でそれに応える。
わたしも目の前のバニラアイスを一口食べた。その冷たさが先ほどの吐息の熱さを思い出させて、わたしはなかなか二口目を口に運べなかった。




はじまりのキス は、まだ少しだけ遠くでわたしを待っている(はず)。