バニラの風が吹く




あの角を曲がればもう家はすぐそこ、というところで、の体が正体不明の重量により吹っ飛びかけた。地に足が着かない感覚は、恐怖と同じだった。ぎゅっと目を瞑って受身を取るように体を丸めて衝撃に備えたが、いつまで経ってもその時はこない。いや、危機に瀕した時ほど一瞬は長い。そう思っていた。

「おい、いつまでそうしてんだ?」


聞き覚えのある声が頭上から降ってくる。気がつくと足はきちんと地面に着いていたし、力強い腕で支えてもらっている感覚。


「え、あれ、デンマークさん」
「いや悪がった。大丈夫だったが?」
「は、はい。おかげさまで」


そうけ、そう言って目を細めてデンマークさんは、にかっと笑った。つられてわたしもぎこちなく笑う。なぜなら彼の腕がまだわたしを支えていて、密着していることがたまらなく気恥ずかしかったからだ。


「あの、ありがとうございました。でも、どうしたんですか、そんなに慌てて」
「ああ、それはな・・・」

デンマークさんは元来た方、曲がり角の向こう、家のある方を思案気に見つめた。まじめな表情が珍しかったのでそっとその顔を盗み見ていたら、勢いよく振り返られてわたしは慌てた。


「走れ!」
「え、え、えっ?」


体勢を立て直して、家から遠ざかるように走り出した。強く繋がれた手に引かれて、わたしも走り出す。ふよ、と走りながらバニラの甘い香りがするのが気になった。








「デンマークさん、なんでこんなことに?」
「ん、それはな・・・。おお、奴が来たど!」
「来たって、何が・・・」

ちょっとだけ楽しそうに声を弾ませたデンマークさんに導かれるようにして、わたしは振り返る。まだ距離があるものの、その姿があまりにも恐ろしくて背中の毛が粟立った。


「どっどうして、スウェーデンさんが追ってくるんですか?」
「ん、それはな」

がさがさとポケットを漁る彼の後姿からは、どうしてだろう、嫌な予感しかしてこない。そして目の前に掲げられるバニラの風の正体、手作りのクッキーが入ったビニール袋。

「クッキーですか?」
「おう。スウェーデン家のちびっこのおやつ」
「な、何してるんですか? スウェーデンさん絶対怒るじゃないですか!」


ちらりと振り返って確認してみると、さっき見た時よりも距離が縮まっていて自分の寿命まで縮まる気がした。


「いやあ、デンマークさん! 追いつかれちゃいます」
「まっ、その時は俺がおめぇを守るから安心しろぃ」

取り乱している時に落ち着いてにっかり笑う姿が頼もしく見えた。走ってるのとは違う理由で胸がきゅっと苦しくなる。












「でも、わたしが逃げる理由ってないですよね?」

ちょっと冷静になってみると、こんな心臓に悪い逃亡劇にわたしが付き合う理由は全くなかった。巻き込まれただけだ。


「あれ、ばれちまったか」


からっと笑い飛ばして、悪びれる風もなくデンマークさんは言ってのけた。ふて腐れて恨むように睨んでも全然気がつかない。
ふいに唇に軽い感覚。そして、さっくりとした食感。


「よし、これで共犯だな」
「〜〜〜っ!」




運動はあまり得意ではなかったけれど、繋いだ手からデンマークさんの力が流れてくるみたいで、いつもよりも多く走ることができるような気がした。